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「浪人、再考。浪人、最高!」番外編ー二十日鼠と人間ー
きっと誰にとっても多感な19歳。
自分の中で5月の新緑のようにみずみずしい一年であったことは確かなのだけど、高校時代だって、負けず劣らずキラキラッとした「アオハル」だったことをふと思い出す。
だが、しかし、こんな名言もある。
「青春が楽しい」というのは迷想である。 青春を失った人達の迷想である。
(サマセット・モーム、イギリスの劇作家)
今だから、当時を「キラキラ」とか「みずみずしい」という形容詞で片付けられるけれど、不安や嫌なこと、苦しかったこともあったはずなのに、忘れちゃうのよね。これは私の昔からの性分かもしれない。
作家、浅田次郎(一時、彼の作品もハマったっけ)の作品で、「メトロに乗って」という号泣ものの小説がある。物語は「現代」と「終戦後まもなくの焼け野原だった時代」、二つの時代をいったりきたりするような物語なんだけど(ラストは衝撃)。こんなニュアンスのセリフがあったな、と思い出す。
「あの頃は生きるのに精一杯で、人を憎むような余裕はなかった。人からされた、いいことしか覚えていないよ」
日々、生きるか、死ぬか。そんな「賭け」のような毎日。
現代では想像もつかないけれど、そんな時代が小説の中だけでなく、終戦後の日本には確かに存在していたのだ。
片や、喰うに困らない、雨露をしのぐ家もあれば、野垂れ死にする心配もない。「生きていること」が当たり前になった現代では、親が子を殺し、子が親を殺す事件さえ起きている(ネコをストレスのはけ口に殺す人もいる。まったくひどい話だ)。
アフリカのとある部族の首長に「日本では親が子を殺し、子が親を殺す事件が起きている」と話したら「それは本当か? 本当ならば、お前たちの部族はいずれ滅びるぞ」と答えたというエピソードが胸に響く。
ストレスのはけ口を他者に、弱きモノにぶつけるのは、消費文明の「毒」に侵された現代人の象徴だ(きっぱり)。
なんでこんなことを書いているのか、と言えば、ジョン・スタインベックの名作「二十日鼠と人間」を思い出したから。映画にもなっているのでご存知かもしれない。この作品も、とても好きなのだけど、この物語の中には、まさに「ストレスのはけ口を他者に、弱きモノにぶつける現代人の象徴」のような輩たちが、ちょろちょろとネズミ小僧のように登場する。
一方、主人公とその相棒は、この「毒」に侵されることなく、どこまでもピュアで、叶えたい夢のために汗水垂らして真面目に働き、日々生きているのだけど。
最終的にはこの、ちょろまかしい「ネズミ小僧」のせいで、主人公たちは自分たちの夢を断念せざるを得なくなる。そして、主人公は相棒さえも失ってしまう。すべてを台無しにされる。
なんだか、キラキラした高校時代を番外編として書きたかったのに、どんどん脱線して、この作品に出てくる「ネズミ小僧」たちを思い出したら腹が立ってきちゃったわい(いかん、いかん。そもそも小説の世界に腹を立てるなんてナンセンスよね)。
思うのだけど、誰かに、何かに、ストレスをぶつけてもそれは一時的な「対処療法」であって「根本治療」にはならない。
詰まるところ、その病根は、あなたの「胸の中」にあるのだから。
どんな天才外科医、ブラック・ジャックであってもその病は治せないのだ。