「お弁当」と「自己顕示欲」
いろんな人がブログ等で、自分の作ったお弁当をアップする時代。
彩りもよく、小ぎれいで、誰かに「見せる」ことを意識されたお弁当という名の作品。
「子どものため」「旦那さんのため」という立派な大義名分はあるものの、それらを見るにつけて、子どもや旦那さまへの純粋な愛情よりも、その作った本人の「自己愛」、もっと言えば「私を認めてほしい」「私を見てほしい」熱をヒシヒシと感じて、どうもお腹いっぱい、食傷気味になってしまう。
こんな風に感じるわたしは、ブラック・ジャックならぬ、アマノ・ジャック、天邪鬼子なのかしらん?
なぜ、私が清原選手の元奥さん、亜希さんを好きなのかというと、彼女の作るお弁当は、その手の妙な「自己愛」「自己顕示欲」とは無縁なところにいるから、かもしれない。そこにあるのは、食べ盛りの息子くんたちへの、ド・直球な肝っ玉母さんの愛情と、むき出しの「豪快さ」だけ。
だから、見ていて、ちっともお腹いっぱいにならない。
お弁当からはみ出さんばかりの唐揚げたち。
お世辞にも、綺麗とか見栄えする見た目ではないけれど、そこから感じられるのはまっすぐな「愛情」。
写真のお師匠である熊井さん(熊ちゃん)も言っていたけれど、写真は「綺麗に撮ろう」と意識した瞬間、「色気」でなく「お色気」に陥ってしまう、と。
お弁当もしかり。意識した途端、「色気」のない「お色気弁当」になってしまう。綺麗に作ろう、とか、誰かに認めてほしいという「自己顕示欲」とは真逆なところにいるお弁当が私は好きだ。
これって、人間にも当てはまりそう。
「自分を良く見せよう」「綺麗に見せよう」と意識した途端、人は「色気」とは真逆の「お色気人間」に陥ってしまう。大事なのは、てらいもなく、心をむき出しにすること、心を出し惜しみしないこと、ではないかしらん。
お弁当から考える自己顕示欲。なかなか、どうして、奥深いテーマかも。