小説『オールド・クロック・カフェ』 2杯め 「瑠璃色の約束」(3)
<あらすじ>
ガラス工芸作家の泰郎は、鳩時計の「時のコーヒー」を飲んで25年前の過去へ。妻を亡くし、娘の瑠璃とふたりで生きていくことになった年だ。偶然、遭遇した結婚式でブーケトスを取ってしまった瑠璃は、パパと別れるのは嫌だからと、ブーケを花嫁に返す。いつか本当に結婚するときには、パパとママを思い出せるガラスのネックレスを泰郎に作ってほしいと約束する。
<登場人物>
カフェの常連客:泰郎
泰郎の娘:瑠璃
カフェの店主:桂子
桂子の祖父(カフェの先代店主)
* * promise * *
くるっぽー、くるっぽー。
鳩の声が耳の裏でこだまする。結婚式の空で羽ばたいていた鳴き声とはトーンがわずかに異なり、半音階低音でくぐもっていた。いつも耳にしていたような懐かしさがある。空に吸いこまれ風に流される声ではなく、室内で反響する響きだった。
おもむろに目を開けると、木製の白い鳩が小窓から出たり入ったりして時を告げていた。泰郎はゴブラン織りの背もたれに頭を預けたまま、ぐるりと店内の壁を見渡した。見慣れた柱時計たちが、「おかえり」「ようやく思い出したのかね」とでもいうように泰郎を見下ろしている。
あのとき、瑠璃はまだ5歳だった。25年も昔の、わずか5歳のときにした約束をずっと覚えていたのか。それだけ瑠璃にとって、何よりもたいせつな約束だったのだ。それを俺はあっさり忘れていた。子どもとの約束なんて、そのうち忘れるだろうと高をくくり、大人の自分がいともたやすく忘れていた。なんて傲慢なのだろう。大人はいつでも簡単に子どもを見くびる。
そら、瑠璃が不機嫌になるのも当然や。
あの日から、瑠璃は目に見えてしっかりした。女の子というのは、何かしらの母性をもって生まれてくるのだろう。「パパを寂しくさせない」は、瑠璃の母性本能のスイッチを押すには十分だった。
まあ、俺が情けない父親やったからな。
週に1度のペースでようすを見に来てくれていたお祖母ちゃんから料理を習い、包丁も火も、あっという間に扱えるようになった。すぐにものを散らかす泰郎とはちがって、美沙に似たのだろう、瑠璃はこまめに部屋も片付けた。教えたわけでもないのに、小学校に入学するころには、泰郎をパパではなく「お父さん」と呼ぶようになっていた。瑠璃だけがひとり加速度的に成長し、泰郎は置いてきぼりにされたようで、娘の成長を喜んでいいのかどうかすらわからずにいた。それでも、寝るときだけは布団を並べ、手をつなぎたがった。身をすり寄せてくることもあり、そんな夜は、泰郎は娘を抱き寄せて、まだ十分に瑠璃が幼な子であることにほっとするのだった。
「時のコーヒー」のまどろみから目覚めた泰郎は、どこに行くにも持ち歩いている革ひもの付いた絣の信玄袋からメモパッドと鉛筆を取り出した。メモは8センチ四方の正方形を愛用している。いつでも、どこでもアイデアを思いつくと、これにデッサンを描き、依頼ごとにクリップでまとめていた。
瑠璃の結婚式まで、もうあまり日がない。泰郎は思いつく限りのアイデアのラフスケッチを片っ端から1枚ずつメモに描きはじめた。
「コーヒー、冷めてるから取り替えるよ」
「ああ、うん。おおきに、桂ちゃん。そのへんに置いとい‥」
言いかけて泰郎は、声のトーンが桂子より高いことに気づいた。不審に思って顔をあげると、目の前には瑠璃が盆を持って立っていた。
「瑠璃‥、なんで」
泰郎は絶句した。
「そんなん、桂ちゃんが教えてくれたに決まってるやん」
そうだった。ふたりは姉妹のように、いや姉妹以上に仲が良かった。
瑠璃が桂ちゃんにはじめて会ったのは、もうすぐ10歳になる6月だった。
泰郎はそれよりも1年近く前から桂子を知っていた。
桂子の母親の朋子は看護師で、産休が明けると仕事に復帰した。それを機にマスターが桂子を店で預かるようになった。よちよち歩きを始めたころで、孫がかわいくてしかたのないマスターは、客のことなどほったらかしで桂子の相手をしていた。桂ちゃんは、たちまちカフェの人気者になった。人見知りはするが泣きわめくほどでもなく、祖父の後ろに隠れてエプロンの端からちょこっと顔を見せる。そのしぐさが、また、かわいくて。なついてほしい常連客は足繁く通っていた。
ところが、泰郎は瑠璃をカフェに連れて来たことがなかったから、瑠璃はまだ桂子と会ったことがなかったのだ。
「こんどの6月10日の時の記念日が、桂子の2歳の誕生日なんや。ささやかな誕生日パーティをするよって、泰郎君も瑠璃ちゃんを連れて来てくれんか」
ある朝、いつものように新聞を広げてコーヒーを飲んでいると、マスターが話しかけてきた。
「ええけど。平日やから、瑠璃は学校があるで」
「4時からやったら、いけるか?」
「それやったら大丈夫や」
「6時過ぎに朋子が迎えにくるさかい、それまでやねんけどな。工房の方は、大丈夫か?」
「ああ、かまへんで。夕方のせわしい時間に来る客もおらんしな」
その日、学校から走って帰ってきた瑠璃を連れて、カフェの格子戸を開けると、水色のワンピースを着た桂子が窓の上の鳩時計を首をかしげながらじっと見ていた。手にはうさぎのぬいぐるみを抱え、ワンピースの裾からはオムツでふくらんだ白いブルマが見え隠れしている。前庭の窓から射し込む西日が、桂子の姿をスポットライトのように照らしていた。
くるっぽー、くるっぽー。
鳩時計が時刻でもないのに、桂子とおしゃべりをするように鳴いていた。
そのあどけない姿を目にするや、瑠璃は小動物を見つけたかのように「きゃあ、かわいー」と声をあげ走り寄った。桂子は一瞬びくっとしたが、瑠璃が膝をついて、にこっと微笑むと、にこっと笑い返した。
「わたしは、瑠璃。おいで、いっしょに遊ぼう」
瑠璃は桂子の手を引っ張って、通り庭へと出て行った。泰郎もふたりについて出ようとすると、「瑠璃ちゃんにまかせとき」とマスターがやんわりと制す。通り庭側の窓からうかがうと、瑠璃が紫陽花の葉にいたカタツムリを採って掌にのせていた。桂子が顔を近づけ、人差し指をおそるおそる伸ばす。ふたりの背を雨あがりの残照が染めていた。
カフェの客は大人ばかりだったから、やさしいお姉さんの登場に、桂子は人見知りをどこかに置き忘れたようになついた。瑠璃も、幼い桂子の存在に心を奪われた。歳の離れた妹ができたような感覚だったのだろう。ケーキを小さく切って食べさせたり、口もとを拭いたり。他の常連客が「瑠璃ちゃん、すっかり桂ちゃんのママやな」と声をかけるのも耳に入らないようすで、かいがいしく世話をやいていた。
瑠璃の母性本能は、その日を境に、泰郎から桂子にシフトした。
学校が終わると瑠璃は工房には帰って来ず、まず、カフェに行くようになった。桂子も瑠璃が帰って来るのを、格子戸を出たり入ったりして待っていた。ランドセルをカフェに置くと、瑠璃は桂子の手を引いて遊びに出る。
「6時の鐘が鳴るとな、きっちり帰って来るんや。ほんま瑠璃ちゃんはしっかりしてるさかい、まかせて安心や」
コーヒーを飲みに行くと、マスターが豆を挽きながら瑠璃をほめる。
瑠璃と桂子のそんな関係は、桂子が小学校にあがるまで続いた。さすがに小学校は桂子も自宅から通うようになったので、たまにしか会えなくなったが、ふたりが本当の姉妹以上の仲の良さであることは、この歳になっても変わりはなかった。
「瑠璃、お前、いつからカフェに」
泰郎が目の前の瑠璃に訊く。
「お父さんが『時のコーヒー』を飲んだって、桂ちゃんからLINEにメッセージが来て、すぐよ」
さも当然のように、あっけらかんと答える。
「お前、仕事は‥」
「あ、それは大丈夫。社長が、そないな大事なことやったら、今日は休みにしたらええ。早よ帰り、言うてくれはったから」
瑠璃は、泰郎の大学時代の先輩が社長をしているデザイン事務所で働いている。知り合いゆえに融通が利きすぎるのも困りものだ。
瑠璃は盆を胸に抱えたまま、泰郎の向かいの椅子に腰かけた。
「あの日の約束、思い出してくれたん?」
何枚も描きなぐって散乱したメモを指さしながら尋ねる。
「ああ。忘れてて、悪かったな」
「やっぱり。忘れてたんや」
瑠璃がため息まじりにつぶやく。
「いや‥すっかり忘れてたわけでは‥」
泰郎はあわてて、ぼそぼそと言い訳を試みようとした。けれども、途中で思い直して言葉を切った。ちらりと、8番の鳩時計を見上げる。
「すまん。時計に教えてもらうまで、思い出せへんかった。かんにんな。瑠璃にとっては、たいせつな約束やったのにな」
泰郎は姿勢を改め、両手で両の太ももをつかみ深々と頭を下げた。
「ほんまに覚えてへんかったん? 私、高校から平女に行ったやろ」
「ああ」
「チャペルでの行事に、お父さん、来てたやん。それでも、思い出さへんかったん?」
瑠璃は高校から平安女学院に通っていた。25年前のあの日、泰郎と瑠璃が偶然出くわした結婚式は、平安女学院の聖アグネス教会での挙式だった。瑠璃が女学院に入学してから、泰郎は行事や懇談で学校に行くたびに、チャペルを見上げ「ここで瑠璃がブーケを取ったんやなぁ」と感慨にふけった。結婚式も、ブーケトスも覚えていた。それなのに、一番たいせつなネックレスの約束だけがすっぽりと記憶から抜け落ちていたのだ。
なんでやろな。
泰郎は胸のうちでつぶやきながら鳩時計を見上げて、「はっ」とした。
もしかしたら、無意識のうちに自分で記憶を消していたか、心の奥底に鍵をかけてしまい込んでいたのではないか。「瑠璃が幸せな花嫁になることを願っている」と言い、「娘思いのいい親」を演じていたけれど。その実、心の深いところでは、結婚してほしくない、手放したくないと思っていたのだ。だから、ネックレスの約束だけを忘れていた。
ああ、俺は「俺から瑠璃まで奪うんか!」と母に叫んだあの夜から、ちっとも成長していなかったのだ。
そう気づいて、泰郎は愕然とした。と同時に、もう一つ、自らの無自覚による勝手な言動に思い当たった。
「あのな、一つ訊いていいか」
「何?」
瑠璃がテーブルの上で組んだ両手の甲にあごを乗せて、泰郎を見つめる。黒目がちのつぶらな瞳は、どこまでも深い烏羽玉の輝きをたたえている。その瞳に見つめられると、泰郎はいつもたじろぐ。だが、訊くなら今しかない。
「お前がブーケを取ったとき、父さんさ、瑠璃が結婚したら寂しなるって、言うたやろ」
「そしたら、お前。パパと離れるのは嫌や言うて、ブーケを花嫁さんに返した」
「うん。覚えてるよ。代わりに忘れな草の花束を花嫁さんからもらって、うれしかったことも」
瑠璃は思い出すように遠い目をする。
「あのな‥もしかしたらやねんけどな」
泰郎はまだ次のひと言を逡巡していた。
「俺があの時、『瑠璃が結婚したら寂しなる』言うたから‥」
「お前‥この歳になるまで‥‥結婚をためらったん‥ちゃうか?」
「俺がなんの考えもなしに言うた言葉が‥ずっとお前を縛ってきたんかもしれん‥思ってな」
ひと言ひと言、噛みしめ確かめるように話す泰郎の言葉を、瑠璃は黒く深い瞳をまっすぐに向けながら、ただじっと聞いていた。
泰郎も話し終えて口をつむぐと、目の前の瑠璃を見つめた。
これまでに見たことのない父の真剣なまなざしを受け取り、瑠璃は、ふっと微笑んだ。
「お父さんて、ほんま自意識過剰やな」
「そんなん、ちゃうちゃう。そら、小さいころは、そんなふうに思ってたかもしれん。でも、うち、高校卒業してからは、合コン行きまくってたやろ」
「そういえば、そやな」
「自分でいうのも変やけど。黙ってたら、うち、そこそこかわいいらしい。せやけど、喋るとこんなんやろ。合コンに来るような男はそれで引くんやから、あんたは黙っときって、美和とかによう言われた。今まで結婚せぇへんかったのは、単に彼氏ができへんかったから」
「それに、平安女学院に入ったんは、あそこのチャペルでいつか結婚式を挙げよう思ってたからって、知ってた?」
「えっ?」
瑠璃はそんな早くから、結婚に憧れ、しれっと進路の選択を結婚式を基準にするほど壮大な計画を練っていたのか。女の子の、いや娘の早熟さに泰郎は唖然とした。
自意識過剰。ほんまにそうかもしれんな。男親なんて、こんなもんか。
娘のことなんて、なんもわかってない。いや、わかろうとしてなかった。瑠璃は母親のいなくなった穴を埋めるように、急いで大人になり、家事をこなすだけでなく、気がついたら店の経理や事務まで当たり前のようにやってくれるようになっていた。それなのに。自分はといえば、なんの成長もなく瑠璃に甘え、ただ時間を重ねてきただけ。挙句の果てに、娘とのたいせつな約束まで忘れていた。
瑠璃がああ言うのやから、そうなのかもしれん。けど、瑠璃特有の優しさかもしれん。もう、どちらなのか泰郎にはわからなかった。ガラスの吹き加減やったらわかるのにな。情けねえなぁ。
たった一つできることがあるとすれば、あの日からずっと瑠璃が憧れていた結婚式に、俺の渾身のネックレスを贈ってやるくらいか。
「ネックレスのデザインは、できたん?」
テーブルに散らかっているメモに瑠璃が目をやる。
「せや、どのデザインがええ?」
瑠璃が見やすいように並べながら、泰郎が訊く。
「瑠璃が気に入ったのを作るわ」
泰郎がいそいそと机に並べはじめたメモを、瑠璃はさぁっと集め、まとめて裏返した。
「もう、お父さん、ほんまにわかってへんね。それじゃあ、サプライズにならんやん」
「楽しみにしてるから、せいぜい悩んでがんばって作って!」
泰郎は、また、娘の気持ちを読みまちがえたことに頭を掻く。
瑠璃は目の前で恐縮している父親の目尻に皺が増えたなと思いながら、鳩時計を見上げる。深い緑の山小屋から、白い鳩が顔を出した。瑠璃は「ありがとう、お父さんに思い出させてくれて」と胸のうちで礼をつぶやく。木彫りの白い鳩は、くるっぽーと、瑠璃にこたえるようにひと声鳴いた。
「ほら、お父さん、もう店開けんとあかん時間やで」
瑠璃はメモを集めてクリップでとめ、絣の信玄袋に入れ「はい」と渡す。かいがいしさは、相変わらずだ。泰郎はそんな娘の手際のよさに目を細めながら、おもむろに腰をあげ、歩きかけて振り返る。
「そや、ネックレスの約束をしたとき。瑠璃も俺に、瑠璃のことをいつでも思い出せるものをくれる言うてたな」
「そやったけ?」
瑠璃が、ふふ、とうれしそうに笑う。
「忘れたんか?」
「私はお父さんとはちがうからね。ちゃあんと、覚えてるよ」
「で、何をくれるんや」
「それは、ヒ・ミ・ツ」
瑠璃はいたずらっぽく笑いながら、カウンターで事のなりゆきを心配している桂子のもとに駆け寄った。
くるっぽー、くるっぽー。
泰郎は鳩時計の鳴き声に送られてカフェを出る。ネックレスのデザインをあれこれ考えながら、茶わん坂へと通りの角を曲がった。
(to be continued)