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『希望くん』#架空小説書き出し

 原体験も初期衝動もない夢にとらわれて僕の二十代は終わりつつあった。夢はいたってシンプル。人のために死ぬ、ただそれだけだ。特に理想のシチュエーションも何も決めていない。南風に吹かれながら昼寝をした時の夢と同じくらいぼんやりしている。ふとした瞬間になんとなく思い出す、そんなところまで似ている。
 夢にしては利他的と考えるかもしれない。しかし全くそんなことはなく、ただの強いナルシズムとエゴの合わせ技だ。暇な授業中にはテロリストからみんなを庇って自分だけ死ぬし、彼女ができるたびにこの人のために死ぬんだと心に決めている。
 そんな僕だが当然、特に死ぬチャンスもなくとうとう三十歳になろうとしている。27クラブに入ることは遂には叶わなかった。それどころか今まで器用に立ち回ってきてしまった人生、そこそこの大学に入学して卒業、そこそこの会社でそこそこの待遇。世界で一番人のための死から遠い所にいるんじゃなかろうか。
 いつも通り単調で湿度の高いスマートフォンの目覚ましを5回だけ聞いて、—独立した目覚まし時計の音はあまり好きになれなかった—口をゆすいでからコップいっぱいの水を飲む。ここ半年くらいは塩をひとつまみ入れるようにしている。不味くなるがそっちの方が体に吸収されやすいらしい。年がら年中エアコンの「自動」をつけっぱだから部屋の温度は常に快適だ。週に週に二、三回は彼女と共に朝を過ごし朝食をとったり、とらずにコーヒーだけだったりする。いわゆる半同棲と言うやつだ。会社に服装の規定はないが、少し太めのシルエットのスーツを着て出社する。周りがカジュアルな服を着ているなら僕はかっちり決めたい。逆ならもちろん崩したくなる。ただ天邪鬼なだけで、強い信念があるわけではないのだが。
 自宅最寄りの駅から職場までは電車を使って約三十分。適度に空白の時間を作ることができるこの距離感を僕は気に入っている。コスパやタイパだけを考えていたら楽しいものも楽しく無くなってしまうだろう。人生には無限にユーチューブショートを見続ける日も必要だし、『必殺!恐竜神父』—あるいは君にとっては傑作映画かもしれないが—を、人をダメにするソファに全体重を預けて鑑賞する経験もおそらくしておいた方がいい。会社は駅と直結しているビルにあるので外に出ないで済む。傘をさすのが嫌いな僕からしたら我が社の一番の誇らしいポイントかもしれない。あとは合コンで少しモテることくらいのものだ。午前中は基本的に上層部のために石橋を叩いてあげるような雑務に終わる。午後は企画会議に費やすことが多いが、今日は違った。取引先の女性社員との話し合いだ。大きな食品メーカーのマーケティング部の女性で、ここ一ヶ月で何度か会っている。先方と我が社で来年の春に大型のプロモーション企画をうつのだ。
 少し珍しい個室になっているカフェに入店する。先輩から教えてもらった店だ。靴底が地面にくっついてしまうのではないかと頭をよぎる暑さから一転、冷房のよく効いた店内にまずは安心する。外を移動するたびに熱中症で倒れてしまうことを心配する外気、そこから逃れた瞬間の感情は誰だって喜びや快感よりも安堵のはずだ。いつも通りお互いの社での企画の進み、今後の方向性について話を詰めていく。何度か会っているし、彼女の友達だと以前判明してからはいくらかプライベートなことも話すようになった。ルックスの良いこの女は幼い頃から人間、特に雄に絶望してきたそうだ。それに加え、彼女は父が農家をしながら在野で生物の研究をしていることもあり、人間なんかよりも犬や猫、鶏、山羊と過ごすことの方が多かったと語る。企画の話も一段落つき,何気ない流れから動物園の話になったわけだが彼女は「動物園の正当性についてはまぁなんとなく納得できるんですけど、肉食獣たち、あれあまりにも可哀想すぎると思いませんか?」と言い出した。インドア派の僕からしたらライバルや敵となる獣と争う心配も無く、毎日決まった時間に充分な量の—あるいニンゲンの都合で勝手に充分とされているのかもしれないが—エサが貰える生活は、可哀想なものとは程遠いように思える。しかし彼女曰く、ライオンなどは生肉を餌として与えられているだけで、生きた動物を追い、殺し、そして食べる歓びを知らないと。本来なら知っているべきなのに。
 僕は、死肉を漁るライオンの映像も見たことがあるし、狩りをしたいはずという考えもまた人間のエゴなのでは、という責任を持つことを嫌う現代の若者の鑑のような発言をしようとした。ところが彼女の熱のこもった演説を聞いている内になんとなく彼女の言っていることが正しいようなそんなような気がしてきてしまった。ここで妙に納得してしまったのは、三十歳目前にして何も成し遂げていない自分に自信がなくなっていたからかもしれないし、僕好みの彼女にちょっとでも気に入られたかったからかもしれない。
 その次の休日、動物園に行くことをふと思い立った。電車で1時間弱くらいのところにあるのだがここ5年くらいは行っていない。外は天気予報を確認するのも億劫になるくらいの快晴だった。今日一日、暑さに悩まされることを受け入れるためだけに天気予報を確認する。たまたま黒いTシャツに黒いパンツを選んでしまったが、着替え直すのも面倒くさいのでその格好のまま向かった。
 案の定、動物たちも一様に舌を出して日陰で寝転んでいる。かくいう僕も園内にあるレストランの近く、日陰のベンチで棒アイスを食べ終わってからも15分ほど立てていない。連日の猛暑日もあってか、家族連れもほとんどいない。たまにゴミ箱の袋を交換して回っているであろうスタッフとすれ違ったが、客も少ないしお昼を過ぎてからは一度も目にしていない。直射日光にあたっていないのに汗が垂れてきた。こんなことなら来るべきではなかったかもしれない。何度拭っても汗の滴は僕の目に向かって走り続けてくる。そうだ、ライオン。可哀想らしいライオンを見なくてはいけない。
 園自体は思ったよりも広く、さっきいたところから8分くらい歩いた。ライオンのエリアだ。いくらサバンナ出身だと言っても、日本の夏は彼らを日陰で大人しくさせていた。オスが2頭とメスが2頭。それぞれが別のカップルのように—すでに夫婦なのかもしれないが—少し距離をおいて寝転んでいた。面倒臭そうに尾を使って蝿を払う以外には、やることがなさそうだ。檻ではなく深い堀で囲むタイプの展示が、逆にライオンの異物感を際立たせる。彼らは僕に見られていることを気にも留めない様子だった。見つめてもこっちを向かない。アブラゼミの他には僕とライオンだけが存在していた。僕が下に降りたら嬉々として飛びかかってくるのだろうか。正面に寝転ぶメスのライオンと目が合った。尾を動かすのをやめて、こちらから視線を外さない。セミの鳴き声以外は何も聞こえない。汗が垂れてきた。目に入る、と思い、拭った瞬間にスマホのバイブ音が鳴った。
 連絡は彼女からだった。今日はあの食品メーカーの女友達と美術館に行くと言っていたのだが、僕が動物園に行っていることが話題に上がると、二人とも動物園に来たくなったらしい。今園内のレストランで昼食を食べているから来ないか、と言う内容の電話だった。遅いお昼ご飯だし遠いしと思いつつ、彼女の誘いを断るのも角が立つ気がして顔を出すことにした。オフの友達も気になる。合流して少し話していたのだが、やはり彼女とその友達、そして僕と言う構図にアウェーさを感じ、適当な理由を言いながらまたライオンのところに戻ることに。炎天下は僕の社会性を少しだけ溶かし消してしまったようだ。
 外ではまだフラミンゴがゆらゆらと燃えながら、濁った鳴き声をあげていた。しばらく歩くとその声は聞こえなくなったが今度は僕の上半身が揺れているように感じる。脱水と軽度の熱中症からくるものかもしれない。なんとか暑さに抗おうと息を前髪に吹き上げたり、Tシャツに空気を送り込んでみたりした。
 ライオンの前につくと、彼らは今度は僕を一斉に見た。一目見るだけにして、お土産ショップにでも入ってまとわりつくような熱から逃れようと思っていたのに、彼らの鋭い視線に僕は釘付けにされてしまった。高さ的に僕よりかなり低いところにいるので、直線距離で言うと10メートルくらいだろうか。正面のメスのライオンがゆっくりと体を起こす。蝿を払うためだけについている様な尾も動かなくなる。胸の辺りを汗がつたっているのを感じた。一筋の冷たさ。本当に可哀想なのか。ここで柵を乗り越えて堀の水に飛び込んで生き餌になればあの女の為になるし、4頭の彼らの為にもなるのかもしれない。眉毛が汗をダムのように堰き止める。夢を達成せずに三十歳になるという事実と、ものすごい暑さは、なぜか僕に柵を乗り越えさせた。これは夢を叶えることにならないのはうっすら分かっていたし、水が張ってあるとは言えあの流れのない水では僕の体を冷やすことができないことにも気づいていた。しかし、僕の体は一瞬で少し緑がかった臭い水飛沫に包まれる。突然いつも遠目に見ている生物が目の前に落ちてきて驚いたのだろう。すぐに飛びかかってくるという僕の予想に反して四匹とも距離を空けてこちらを伺っているだけだった。一頭がたてがみに日光を蓄えながら、緊張感のある足取りでこちらに近づいてくる。ますます世界は揺れていた。堀の水と汗が混じり合って僕の体を包んでいたが、衣服に染み込んだ水分以外は一瞬で蒸発してしまったようだ。体温も一緒に大気中に吸い込まれていった。ダムは決壊したのか、目に痛みを感じる。なにか陶器のようなヌメりを携えた爪が一瞬で距離を詰めてきて僕の腕にかかった。一瞬で燃える。
ズガァン
 重いジャブが僕に行われたライオンの最初で最後の攻撃だった。もっとも、彼からしたら狩りなぞするつもりは無く群れを守ろうとしただけだったのかもしれないが。どうやら僕は柵を乗り越えるのに長い時間をかけていたらしく、様子のおかしな僕に気づいた飼育員が麻酔銃を用意してライオンを撃ったらしい。殺されたわけではないようで安心だ。結局僕は死んでいないし、ライオンは僕のせいで可哀想な目にあった。どうして彼女の友達のためになると思ったのだろう。
 僕の二十代は死ぬほど色んな人に怒られて終わった。人のために死にたいという脅迫的な夢とも言える絶望は、やろうと思えばもういつだって誰かのために死ぬことができるという、半分吹っ切れのような開き直りに変わったようだ。

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