あやふやメモリー
なんだか最近は時間の流れが遅い。
というのは一日々々に起こる(出会うといった方がよいかもしれない)ことがらが春休みよりずいぶん多く、noteの更新日やInstagramのストーリーの履歴をみると「まだあの時からこれだけしか経っていないのか」と驚くのだ。
友人間にも共通の感覚があるみたいで、濃い一日があると「今日最終回じゃん!」と一同で笑う。それを毎週のようにやっている。
萩原朔太郎の詩集を読んでいる。『月に吠える』である。
一息に九割読んだのだけれどそこからは重苦しく感じたのでページを繰る手を止めて置いている。そういう状態だ。
詩の捉え方が私(たち)と共通しているように感じる。
曰く「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」。至言だ。
言葉で作られた詩が言葉を超越し、詩そのものはだんだんと読み手によって形を変える……。私はそれを詩の理想形だと信じてやまない。
「詩は何より音楽でなければならない」という言葉にも頷ける。言葉には音が付き纏う。そこを見つめなければ詩は言葉を超えられない。
ただ一度に読むには詩が重たかった。彼の詩を読むのは一日に三つくらいでいいと友人が言っていたけれど、その通りだろう。いや、三日に一つかもしれない。
詩集全体を通して共通するイメージがあった。犬とか、月とか、臓物とか、竹とか、あとはなんだっけ……。
ああ、女性への情欲とか、死への誘惑とか、そのへんが友人と話していて鍵になる気がした。今はうまく書ける気がしない(うまく書くべきかもわからない)のでここまでにしておく。
村上春樹の『風の歌を聴け』を読んだ。
素晴らしい。なにより読んでいて心地がいい。皮肉に富んでいて、映像的で、テンポもよくて、比喩がおかしくて、質量もある。しかも短い。短いというのは褒め言葉だ。短い小説はいい。
そう感じたのは『月に吠える』の重みをとっくに受け入れられない状態になっても読み続けた影響だろう。
最近読書やアニメや漫画の鑑賞に関して、いわゆるキャパオーバーになりがちだ。
よいものを作るためにはよいものをたくさん知らなければならない。だからできる限り多くのものに触れる必要がある。
常々どこかでそのように切迫していて、心が楽しめない状態でも無理に鑑賞してしまう。
そうやって観た作品は決まって記憶に残らない。それを何度かやっている。
『月に吠える』もそれにあたる。後半は正直目を通しただけだ。記憶にないどころか、そもそも頭に入っていない。
もったいないと感じる。しかし心が新しいものを受け入れられるようになるのを待っているのは焦燥感に駆られて耐え難い。
思うにアウトプットの量を増やすのがよいのだろう。音楽を作る時間や文字を書く時間をもっと作るべきだ。時間をかけてそういう習性に修正していこうとしている。今日の日記もその一歩である。
最近気になる人ができた。同じゼミで、やけに仕事を背負っていたので手伝った。そうしていくうちに仲良くなった。
彼女はなんというか、危うい人だ。
人に頼るのが苦手らしく、一人で背負い込もうとする節がある。案の定限界を超えてパンクするのを繰り返しており、その後始末を私がたびたびする。そういう関係だ。
彼女に対して、私は断じて愚痴が言いたいわけでも悪口を書きたいわけでもない。
慮るばかりに頼ることが苦手になるのは共感できるし、限界に挑んでこそ強くなれるという思想も私にないわけではない。
私にも通ずる部分はある。
だからこそ放っておけないのだ。心配になる。
しかし勝手に心配してあれこれ気を回して話しかける私の気持ち悪さったらこれ以上ない。
こんなことで悩める自分は幸せ者なのだろうとも。
と、いうようなことをしばらくぶりに会う友人に話してみたら「臆病者」とだけ返ってきた。ぐうの音も出ない。
最近はそんな感じだ。あとは毎日おいしいものを食べることを目標にしている。キャパを超えないというのも。『月に吠える』についても『風の歌を聴け』についてもまた掘り下げたい。
とりあえず今日はここまで。久しぶりに晴れてほしい。
そうだ。今日はお世話になった方にステーキをご馳走していただいた。
素敵な時間だった。張りついた氷が溶けるような。
おいしいと感じることと幸せだと感じることの距離は異常に近い。他の五感に比べて。
ごちそうさまでした。