読書の祝祭たるものは——志村ふくみ『一色一生』、柴田元幸訳『ハックルベリー・フィンの冒けん』【書評】
拝啓
五月尽日というのに入梅のような曇り空です。平年よりも1週間ほど早い。季節感が一枚、また一枚はぎとられていくような思いがします。
あなたのお手紙を拝読し、ようやく『手紙、栞を添えて』を手にしてもらえたのを嬉しく思います。文学者と作家というお二人にはとうてい及ばないのは承知しています。それでも、読書の快楽を語り合うならば、場末の読書家と歌人見習いの二人であっても、潤いのある往復書簡になるだろうと胸が躍ります。
あなたが教えてくれた志村ふくみさんといえば、花が開く直前の桜の樹皮を煮出して糸を染めたら、ごつごつした黒っぽい樹皮にも関わらず、ほんのり淡いピンクの桜色になったという話を、かつて国語の教科書で読んだことを思い出しました。
文庫版があるとは知っていましたが、ここはあなたとおそろいのハードカバー版『一色一生』を手に取りました。かの桜の話も幾度か言及されていますね。口絵写真にある「桜かさね」の着物がそれなのかもしれない。ハードカバー版でよかった。
そして、日本人はなぜ藍に惹かれるのか、紫を尊ぶのか、はじめて腑に落ちました。小林秀雄は、仏教思想によって養われた、自然に対する審美的態度が、我々の心と身体に深く浸透していて、それが伝統であり文化であると指摘しています。仏教を重んじた聖徳太子が定めたといわれる冠位十二階も、高貴な色は紫と青です。そういえば、この万年筆のインクは、書いているときは紫が強く、乾くと青くなる。一番のお気に入りの色です。
今回、志村ふくみさんの随筆を初めて読みましたが、実はとても時間がかかりました。こまかくルビがふってあるからと当初は考えましたが、違いました。
志村さんは植物からじっくりと染料を取り出し、時間をかけ、回数を重ねて糸を染めていきます。経糸は伝統、緯糸を、いま生きているあかしにたとえて織ります。志村さんは、それと同じ方法で、時間をかけて、言葉を、文章を紡いでいます。急いては藍に染まらずに甕から糸を絞り上げるようなもの。だから読む方も、糸の染まり具合、織り色の重なり具合を感じるように読むと、ちょうどいい。
さて、お尋ねされた、幼少の頃の「読書の祝祭」です。真っ先に思い浮かべたのは、マーク・トウェイン『ハックルベリーのぼうけん』です。ただ、場面ばめんは断片的に思い出せるものの、全体像は記憶の彼方。ならば此れ幸いと、柴田元幸さんの新訳『ハックルベリー・フィンの冒けん』を読んでみました。
19世紀半ばのアメリカ。前作『トム・ソーヤーの冒険』で、一躍大金持ちとなってダグラス未亡人の養子となり、衣食住と教育を与えられた腕白ハック・フィン。しかし、カネ目当てに現れた粗暴な父親の暴力に耐えられず逃げ出します。やはり逃亡してきた顔見知りの黒人奴隷ジムと一緒に自由を求め、アメリカ大陸随一の大河ミシシッピー川を筏で下る物語です。
今回、数十年ぶりに読んでみて、沈没間近の船に忍び込んだり、ペテン師二人の悪事を手伝ったりと、知らなかったエピソードが次から次へと出てきました。子どもの頃に読んだのは、児童向けに改変された簡略版だったようです。
さらに、おもしろかったと覚えていたはずのエピソードも、自分で場面を改変していました。川下りに用いていたのは筏だけだと思っていたらカヌーも使っていましたし、かぶっていた帽子の中に隠したパンの、バターが溶け出して顔に垂れ大騒ぎとなったのは、ジムではなくハック・フィンでした。
子どもの頃には理解できなかった奴隷制や、19世紀アメリカの文化や風土がうまく描かれていることを、大人になってから知るのは当然のことです。しかし、旅に憧れ、冒険に胸を焦がし、自分の暮らす日本とは異なった暮らしと歴史があるのだと知るきっかけとなった『ハックルベリーのぼうけん』は当時、たしかに昼夜をとわず読みふけり、枕元に置いて眠った「懐かしい物語」でした。それでも、『ハックルベリーのぼうけん』は本当に、あなたのいう「読書の祝祭」となる一冊だったのだろうか。
さらに記憶の奥底へ沈んでいくと、自分自身を形作った読書体験は、『ハックルベリーのぼうけん』のみならず、国語の教科書を繰り返し耽溺して読んだことだと気づきました。国語の授業は関係ありません。あくまでも、大切だったのは、国語の教科書です。
春になり、新しい学年が始まり、新しい国語教科書を受け取ると、その日のうちにすべて読むのが恒例でした。翌日は、二つ年上の兄の国語教科書まで読み尽くしたものです。
小学1年生のとき、毎日課される音読の宿題で、ついに全文を暗唱してしまった「チックとタック」。小学3年生ながら、教科書本文を原作に私が脚本を書き、学年集会で上演した「そらいろのたね」。新川和江さんの詩「わたしを束ねないで」も、平家物語で那須与一が射貫く「扇の的」も、志村ふくみさんの桜の話も、飽きることなく繰り返し読んだのは、国語の教科書でした。
物語あり、随筆あり、説明文あり、詩あり。私にとって国語教科書は上質なアンソロジーだったのです。
あなたは、子どもの頃の国語教科書を、どのように読んでいましたか。お気に入りのものもあれば、嫌いだったものもあるはず。あとあとの読書に影響を与えたような作品や作家を、どうぞ教えてください。
梅雨はあまり好きではありません。でも、あなたを想い、雨の音を聴きながら読書するのが、この六月の楽しみです。
敬具
既視の海