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最強の泥湯、別府・鉱泥温泉

とにかく効くらしい。疲れがスッキリ取れるらしい。でも一回ダルくなるので、スケジュールに余裕がある時がいいらしい。

こう書くと、なんだか危ないクスリか何かみたい。でもこれは別府の鉄輪(かんなわ)というエリアにある「鉱泥(こうでい)温泉」という泥湯のこと。地元の何人かから勧められた。

別府には出張で度々足を運んでおり、今回でおそらく10回目くらい。数えるのも忘れているが、とても好きな街。しかし滞在のほとんどが出張で、純粋な旅行で来たことはない。あ、12年前の熊本旅行へ行くのにLCCで降りたのが大分空港で、一瞬立ち寄ったことはあったかな。

その立ち寄った別府で、せっかくだからと日帰り温泉を調べて入った。今でこそ全国の出張先で温泉を見つけては入りまくっているが、当時は出張なんてものを経験したこともなく、旅行も年に一度行くかどうか。ちょっと話が逸れるが、そのとき、別府の共同浴場に衝撃を受けたのを鮮明に覚えている。

まず、入浴にかかる金額が100円。私は小田原で生まれ育ったのと、アトピーがあって母がよく車で10分ほどの箱根の温泉に連れて行ってくれた。でも箱根ではだいたい日帰りで1000円くらい。だから「100円!?別府、なにか間違ってない?」と驚いたのだ。

中に入ると脱衣所と浴場の仕切りがない。シャワーで濡れちゃったりしないの?と思ったが、よく見たらシャワーがない。蛇口は何個かある。かけ湯をして、ただ「浸かる」ためだけの温泉があるというのを初めて知った。ボディーソープを使って洗ってから入るのに慣れていたから、そのまま入ったら地元の主みたいな人に怒られるのでは?なんて不安だったが、貼り紙には「石鹸は使わないでください」と書いてある。そんな禁止事項があるから怒られないか。

かけ湯をして、レトロなタイル張りの大きな楕円形の浴槽に浸かる。あぁ、あったかい。湯気に日が当たって美しい。地元の人たちは次々と慣れた様子でパッと脱いで入ってくる。なんて豊かな文化なんだろう。それが、私にとっての初めての別府だった。その後、全国の温泉地を色々巡ったら、このタイプの共同浴場は日本全国にあると知る。そうか、こういう入り方を人生で初めて教えてくれたのは別府だったんだな。

さて、話を12年後の現在に戻すと、今年は別府の会社の仕事に関わることになり、先日1週間ほど滞在してきた。出張とはいえ、打ち合わせや視察などは健全な時間に終わる。つまり、「スケジュールに余裕のある」別府を初めて楽しむチャンスでもある。鉱泥温泉、行けるかもしれない。

仕事はだいたい10時とか11時に始まる。別府の共同浴場は6時とか7時に開くところが多いので、仕事前に行ける。お目当ての「鉱泥温泉」は、8時15分に営業開始で、しかも午前中しか営業していないらしい。行ける。いや、でも結構ダルくなるって言ってたから、あんまり1週間の序盤で仕事に支障があってもな......。悩んだ挙句、週半ばの朝に行くことにした。

雪がしっかり積もっていた

宿から鉱泥温泉までは、歩くと33分かかる。普段なら散歩がてら、と歩きたくなる距離なのだけど、2025年2月初週。日本全国を最強寒波が覆っているとき。一応途中まで歩いて、バスで向かうことにした。私は普段が着物なので、この日も着物で向かう。ヒートテック的な股引きに、インナー足袋ソックス。足袋は裏地にネルが貼られたあったかいもの。コートを着て、ロング手袋をする。

マフラーを普通に巻いて外へ出たが、雪がちらついている。気温はマイナス2度。iPhoneの天気アプリを開いたら、体感温度は「マイナス7度」と出た。マイナス7度!?耐えられるのか、私!?しばらく歩いたが、5分経ったところで耳が冷たくて痛くて無理。そうだ、マフラーを真知子巻きにしよう。すれ違う人たちもみんなフードをかぶっている。頭を覆ったら、なんとか歩けるくらいには寒さを凌げるようになった。着物でも防寒をしっかりしたら、とりあえず外気温マイナス2度まではいけることがわかった。「着物って寒くないですか?」と心配してくれる知人が度々現れるけれど、「マイナス2度までは平気だった!」と答えられる経験ができてちょっと嬉しい。

これが着物の完全防備

ときどき、道路の隙間から湧き出る湯気の中を歩くときだけはあったかい。ほぼ、コンクリートの床暖房みたいな感じ。温泉ってありがたい。まだ入ってないけど。

もちろん湯気の中を通って歩く

バスに乗るのはほんの4分ほどだが、それでも助かる。ちょっと暖をとれた。さぁ、いよいよ鉱泥温泉へ。と思うのだけど、大きく出ている看板は「坊主地獄」。鉄輪温泉には海地獄、血の池地獄、鬼石地獄などおどろおどろしい名前が並んでいる。それぞれ温泉を指すものなので、地獄めぐりとしてスタンプラリーのように回ったりするのが定番のよう。それにしても「坊主」と「地獄」が並ぶのはなかなかシュールなネーミングだ。仏教的にはどうなってんの?と思う。調べたところ、泥湯が丸くポコポコと湧き出る様子が坊主頭みたいだから、とのこと。敷地内に「鉱泥温泉」の看板を見つけて進んでみた。

入り口付近にはみたことないレベルの霜柱。踏みたい衝動に駆られるけれど、この美しさと、日が当たってキラキラするのも捨てがたいのでそっと眺めて我慢。番台に着くと、誰もいない。「すみませーん!」と声を張ってみても、誰も出てこない。私の声、通らないんだよな。もう一回、もう一段階声を大きくして「すみませーん!」と言ってみる。誰も出てこない。まぁ時間には余裕があるから、中のベンチに座らせてもらって、待つことにしよう。

立派な霜柱

待っていると、大学生くらいの男性が男湯から出てきた。徐に床に座って、靴下を履き始める。全身からぽかぽかと思しき湯気が立ち上っている。いいなぁ。こっちは今、冷たい床から底冷えしているよ。手慣れた様子で上着を羽織ってイヤホンをして帰って行った。そうこうしているうちにもう一名、お客さんが入ってきた。同じく番頭さんがいなくて迷っているよう。彼女は中に入らず、番台の前で待っていた。

しばらくすると、女湯の暖簾をくぐって「すみませんね!お待たせしました!」とチャキチャキした女性が出てきた。片手には温度計を持っている。こちらの従業員さんだった。1名で入りたいとお伝えして、タオルも買って、水も買った。入浴料は900円。共同浴場よりはしっかりした値段だけど、その後説明を聞いて納得する。ここに入るのが初めてだと伝えると、入り方を案内してくれるという。後ろについて、暖簾をくぐって、いよいよ中に入る。

「手前の浴槽は普通の温泉ですから、まずはこちらでしっかりかけ湯をしてください。寒いですから、こちらでしっかり温まった方が、泥湯に入りやすくなるかと思います。右側が腰くらいまで、左側は肩くらいまで、深くなってますので気をつけてください。」

慣れた口調で一息に説明してくれるが、ちょっと待った。「普通の温泉」っていうけどシャワーで体を洗うとかでもなく、とりあえずあったまる用の浴槽ですら温泉なの、すごくない?こちとら東京に住んで十数年。銭湯といえばだいたいが普通の水道水を沸かしたもので、それでも大きいお風呂はいいなぁなんて思ってありがたがってるのに、「普通の温泉」?別府の人、温泉がありすぎて、たぶんありがたみが薄れてるのでは?羨ましい!と、その一言に思いを馳せてしまった。説明は続く。

「左奥にある浴槽が泥湯になります。出入口、と書いてあるところに踏み石があって入りやすいですから、必ずそこからはいってください。他のところからは絶対に出入りしないでください。まずは肩まで浸かって、『十分あったまった』と思ったら、必ず外に出て休んでください。それから『もう一度入ってもいいかな』と思ったら、出入口の同じところから入ってください。マックス3回までが適当かと思います。あまり長くはいると、ふ〜っとなってしまうお客様がときどきいらっしゃいますから、気を付けてください。ペットボトルや水筒は持って入ると水分補給ができるので良いかと思います。出るときは、普通の温泉で泥をしっかり流して、かけ湯だけで上がっても、もう一度浸かってもかまいません。泥湯は、顔につけたり、体に塗り込んだりはしないでください。必ず浸かるだけにしてください。」

流れるように説明しているが、この後、他のお客さんが来る度に、おそらく一言一句違わず、同じ説明を繰り返していた。「もう一度入ってもいいかな、と思ったら」と「かな」で語尾が上がるところがちょっと可愛くて好き。録音して聴きたいほど惚れ惚れする説明だった。オートマティックに聞こえがちな説明なのに、あたたかさがある。入る前からもう、鉱泥温泉が好きになりかけている。

服を脱いで、外に出たらものすごく寒い。そりゃそうだ、マイナス2度の中に全裸でいるのだ。日が出てきたから少しは温度が上がったかもしれないが、それでも寒い。慌ててかけ湯をする。「普通の温泉」はうっすら青っぽく半透明より透き通っているという感じ。熱すぎず、気持ち良い。泥湯の方はもっと熱いのだろううな。しっかり温まってから向かおう。肩まで浸かって、冷え切った足先のピリピリが落ち着いてきたころに、いざ、泥湯へ。

屋根のついた露天風呂は、真っ白のお風呂に墨を3滴垂らしたくらいの、薄い灰色。言われた通りに「出入口」と書かれた柱を目印に、手すりを掴んで足先で地面を探る。踏み石、見えないしわからない!とりあえず辿り着いた床に足をつける。思ったより浅い。先客が3人いたので、空いているところに腰を下ろす。肩まで入らないので、ちょっと寒い!

それにしてもきれいな泥湯。手のひらを5mm沈めたら、もう自分の手なのにどこにあるかわからない。それくらいしっかりと濁っている。踏み石が全く見えなかったのも納得だ。しかし、こんなに濁っているのに、手のひらでお湯を掬っても、指の間にすらなにも残らない。きっと本当に粒子の細かい泥なのだろう。体の座る角度を変えたくて底に手をついたら、少しとろっとした泥を感じた。

たぶん3分ほど経ったころ、肩まで入っていないのに全身がぽかぽかに熱くなってきた。一度上がって、ベンチに座る。ずっと鼻の横が濡れてくすぐったかったので、タオルで手を拭いて掻こうと思う。タオルをベンチから持ち上げたとき、何か引っ掛かるような感覚があった。ベンチはだいぶ年季が入っていたし、木が毛羽立っていて引っかかったのかな?冷えたタオルが気持ちよく、水をごくごく飲んだ。雪がさっきより大粒になっている。こんな冬景色の中で、全裸でいるのに寒くない。外に上がって3分ほどは全く冷える感覚がなかった、5分ほどしてようやく涼んだので、「もう一度入ってもいいかな」と思って、入ってみる。

しかし、お湯によって温まり方が違うというのは、目には見えないけど何が起きてるんだろうな。泥湯があったかいって、どういう仕組みなんだろう?餡かけはとろみがあると冷めにくいってことと同じ?なんて考えながら、なぜが天津飯を想像する。いやしかしこのお風呂はとろみどころかサラサラだ。なにがそんな保温効果があるんだろう。そういえば、泥湯と言ったら前に冬のニセコで入った温泉に一つだけ泥湯の浴槽があったなぁ。すり込んで良いと書いてあって、美肌になれ〜なんて念を込めて体に塗っていたら、硫黄の匂いが3日ほど取れなかったな。あれ、でもこの鉱泥温泉はそんなに匂いも強くないな?

......なんて取り止めもないことを考えていたら、あっという間に温まりきった。もう一度、同じベンチに戻って涼む。タオルを取る。またベリッと引っ掛かる感じがする。あ、木が毛羽立っているんじゃない!タオル、凍ってたんだ!水分を含んだタオル、そりゃ氷点下に3分でも置いておかれたら凍るよなぁ。冷たいタオルがまた、最高に気持ち良い。白い息を吐きながら、ぼんやり降る雪を眺めていると、さっきの従業員のお母さんがやってきた。

「すみませんが、底の泥をかき混ぜますので、みなさん一度出てください」

なるほど、沈んだ泥を定期的にかき混ぜて白濁していたのか。眺めていると、思った以上に勢いよく浴槽全体を波立てる。これ、きっと相当な重労働。これを毎日午前中に、男湯と女湯どちらも何度もするのだから、大変な力仕事だ。浴槽はさっきまでの白い塊のような水面から、荒れ狂う大海原のごとく波を立てている。しかしこんなにたくさんの白く濁る水が荒々しい波を立てている様子は、見たことがない。

いや、少し似た景色は見たことがあるかもしれない。数年前、伊豆諸島の海底噴火の軽石が沖縄に大量に押し寄せて被害が多かったころ、私はちょうど沖縄で生活をしていて、水飛沫を小さな小さな軽石が掻き消す不思議な波を毎日見ていた光景を思い出した。この白濁は、小さくても「泥」が作り出す不思議な波なのだな、と思った。


沖縄の恩納村で見た、軽石に覆われる海

準備が終わり、波が鎮まるころにもう一度浸かる。あぁ、あったかい。マックス3回まで、と言われたから、これが最後か。ぽっかぽかに温まって、少し涼んでから、「普通の温泉」に戻る。また新しいお客さんが入ってきた。普通の温泉に入る人が、泥湯前なのか、泥湯後なのかは、肌の赤みで一目でわかる。いかに泥湯の温まり具体がすごかったのか、改めて視覚で感じる。

よく見たら、泥湯の後に手を拭いていたタオルは灰色のシミができていた。あんなに見えなくても、しっかり泥の粒子がついていたのだな。お風呂を上がって、全身を拭いて、着物に着替える。コートを着なくてもよいくらいあたたまった。番台ではお母さんが電話で話している。

「ですから、きっと他の温泉と間違っていらっしゃいませんか?こちらは旅館ではありませんし、毎日泥を入れ替える必要があるので、午前中しか営業していないんです。午後は泥のお掃除と、坊主地獄から泥湯を運ばないといけないのでね」

どこかと勘違いしたお客さんからの電話のおかげで、なぜ午前中だけの営業なのかの謎が解けた。それだけ手をかけていただく泥湯のありがたみが倍増した。100円で入れる源泉かけ流しの共同浴場とは、手間のかかり方が全然違うのだ。値段にも納得し直した。むしろ安いくらいじゃないか。

帰り道、寒さは全然感じないまま、外の冷たさをむしろ心地よく感じながら、寒波に感謝さえしながら、宿に戻った。これだけの体験をして感動をした後で、一日の仕事を始められるのだ。別府って、鉄輪って、最高だと改めて感じた朝だった。

その後、何本かの打ち合わせに出て、スタッフみんなでお寿司屋さんでランチして、午後もまた打ち合わせして。その間、たしかに全身をだるさが包んでいた。そう、鉱泥温泉はお湯に浸かって気持ちよかった後に、だるさを乗り越えてこそ本当の効き目を感じるとのことだった。お風呂があまりに気持ちよくて忘れていた。

仕事の隙間時間に「湯当たり」「温泉 好転反応」などのキーワードで調べて、どうやら水分をたくさん取るとよいらしい、とか、フルーツを食べるとよいらしい、なんて結果を見る。

打ち合わせが終わって、私は映像の編集仕事があったので、宿に戻って作業することにした。作業のお供に、そういえばパール柑を買っていたことを思い出す。先日のタイ旅行でおいしかった「ポメロ」という大ぶりの柑橘に、砂糖と唐辛子を混ぜたものをつけて食べたのが美味しかった。ポメロって、そういえばなんだったんだろう?と調べたら、文旦やザボンのことだとわかった。それなら熊本あたりで作ってるから、九州のスーパーなら手に入りやすそう、と思って、似た品種のパール柑を買っておいたのだった。宿のキッチンには一味唐辛子はなかったから、七味唐辛子で代用する。分厚い皮を切って、見栄えなんかいいやと思い雑に剥いたパール柑と一緒にデスクへ持っていく。

タイ風に食べたパール柑

映像素材のダウンロードを待っている間に、食べてみる。うん、タイっぽい味!なぜだろう、柑橘と砂糖と七味唐辛子なんて日本のどこにでもある組み合わせだけど、異国の味がする!夢中で食べつつ、水分補給もしつつ、仕事をした。

夜はご飯を食べに行って、一杯だけスナックで飲んで2曲歌って、23時には宿に戻った。(夜が楽しかったことは、また別の記事で。)ここ数年で一番深く眠れたのではないかというほど、ぐっすりと眠った。目覚ましもかけずに起きた朝7時。体が信じられないくらいスッキリとしていて、元気になっている。体が軽い。これがみんなのおすすめの理由だったのか!と、全身で感じる。

良薬は口に苦しというけれど、良い温泉もただ気持ち良いだけじゃなく、一回だるくなるくらい強い温泉が、その後しっかり効いてくるということなんだな、と身をもって知った。地元の方もきっと、すごく頻繁にいくわけではないのだろうけれど、ここぞというときに鉱泥温泉がある街、別府をますます羨ましく感じた。

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