何故苦しかったのかを分析してみる。
先日、夫が会社を休んだ。
数日前から体調不良の私を心配して、病院に行けるようにとのことらしい。
吐き気も治まってきてるし、あとは倦怠感とベッドから起き上がれない(沈み込むような感覚)くらいだったから、病院行っても説明が難しいなーと思っていたのだが。
行ってみたら、採血と点滴。
しっかり調べてくれた。
特に何もない気がするが(言うなれば貧血?)安心感があるので嬉しい。薬ももらえたし。
薬といえば、薬局で号泣してしまった。恥ずかしい。
いつもかなり説明をしっかりしてくれる薬剤師さんなのだが、話を聞いているうちに涙が止まらなくなってしまった。
たくさん励ましてもらって少し元気が出る。
「充分頑張ってるんだから」
その一言に救われる。
その言葉は、自分以外の誰かからもらわないと意味がないんだけども。
自分にご褒美としてケーキやスイーツを買ったらいいと言われたので、胃が良くなったらお気に入りのケーキ屋にいこうと思う。
その日の午後はベッドで死んだように眠る。
休ませてもらえて本当に感謝しかない。
昼寝から覚めて。
こんなに優しい夫なのに、私は何をあんなに当たり散らしていたのだろうかと真面目に考えていた。
多分、自分への理想と現実がかけ離れ過ぎてて辛くなってしまったのだと思う。
育児なんて大変なのが当たり前なのに、わかってたはずなのに。
いつのまにか
「いついかなる時でも常に寄り添う」
「やりたいようにさせてあげる」
「外へ連れてってあげないのはダメ」
「DVDばかり見せるのはご法度」
ここまでならまだしも、
「母親たるもの、子供に対してイラッとしてはいけない」
という鬼のような精神論まで自分に強いていた。
そこへプラスして、
「自分の機嫌は自分で取る」だの「気持ちが事象を引き寄せる」だのといったスピリチュアルまで自分の中に組み込んでしまっていた(恐らくツイッターの見過ぎ)。
つまりは、「育児をするにあたって、一度たりとも『面倒だ』とか『疲れた』とか言うのはもちろん、思うのすらダメ」と本気で思い込み始めていた。
人間である以上、そんなことはまず不可能だ。神にでもなったつもりか私は。
そういえば、夕飯作りをサボることは多々あっても、夜の授乳がツライとか下痢の処理がツライとかベッドが狭いとか、細々した愚痴はほとんど言ってなかったように思う。
小出しにすればいいものを、「母親たるもの、愚痴なんて言ってはいけない」と頑なに思い込んでいた。
まあ、愚痴を言える相手がいないことも大きいのだが。
夫は聞いてくれるだろうか。
実際の夫は多分聞いてくれるはずだが…どうだろう。
手放しで全てを話す気にはならない。反応が怖いのだ。
というのも、(これまで接してきた過去の)夫は話をあまり聞いてくれない。
育児関係の話になると、大抵は夫実家の話にすり替わっている。
「そんなの皆できないって〜」と言いつつ、二言目には「そういう意味では、うちの母親は凄かったと思うよ」と。地味にツライ。
夫は単に自慢の母親の話をしたいのだろうが、私には「偉大なる母親像と比較されるみじめな自分」と受け取れてしまう。
その偉大なる母親を目指そうと頑張ってみてはいるものの、結果はこれだ。
しかし、夫は別に「義母を目指せ」とは言っていない。
結局のところ、自分で自分を追い込んでいるのだ。
そう認めたところで、体の重みが少し楽になった気がした。
もう10年前になるが、その頃も私は同じような失敗をして潰れている。
いい子でもないくせにいい子ぶろうとして、そのギャップに耐えきれず体を壊したのだ。
その失敗をまた繰り返しつつある。これはまずい。
とりあえず、きちんと自分の本音に耳を傾けようと思う。
どんな罵声だろうと、思うだけなら自由だ。
夕飯後、夫と話をした。
パクパクさん達の小話を通じて、新たな発見があった。
簡単に言うと「男性はそこまで考えてない」。
悪意があってやってる訳ではなく、単純に考えが及ばないだけだそうだ。
悪く取り過ぎていた自分を反省した。
それと同時に、いい子ぶる自分をやめたいとも思った。
とはいえ、ここまで積み重ねてきたものはそこそこ大きい。
まずはカタチから入ろうかと考えている。
具体的には、金髪ショートにしてピアスを2つばかり増やしてみようというものだ。
見た目があからさまにパンク路線なら、心も引っ張られてパンク寄りになるのではという目論見である。
ただ一つ重大な問題がある。
私はショートが似合わない。ついでに言うと金髪もおそらく似合わない。
違う作戦を考えよう。