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佐々木先生


公立高校2年生のサトーは、粗野でヤンチャな男だったが、いわゆるヤンキーにも成り切れない中途半端な小僧だった。

ただ、意外にも音楽の素養はそこそこにあって、他人に決して見せない繊細な一面もあった。
彼は小さな頃から様々なクラシック音楽に触れて育った生い立ちがあり、
この頃は盲目の作曲家、ホアキン・ロドリーゴの
「ある貴紳のための幻想曲」
に心を奪われていた。

ハンディキャップをまるで感じさせない圧倒的な表現に、純粋に感動するタイプのサトーは、見たくれとのギャップ甚だしいちょっと変わった小僧だった。



ある日、選択教科である音楽の授業のため、サトーは音楽室に赴く。
たまたま一番乗りだったので、例の幻想曲の第二楽章のイントロ部分をリコーダーでピロピロと吹いていたのだったが・・。

普段は他人の目を気にして楽器を演奏することはなかったが、その日は誰もいないことを確認してから、密かにお気に入りのフレーズを吹き始めた。それは、オーボエやフルート、ファゴットが奏でる美しいハーモニー。
妙に彼の心を捉えて離さない、幻想的な旋律だった。
ほんの10秒ほどのフレーズだが、サトーは耳コピしたメロディーをアルトリコーダーに宛がい奏でていた。

誰も聞いていないはずだった・・。

ところが、その演奏を耳にしていた人物がいた。
それが、倫理社会の教諭であり、リコーダー同好会の顧問でもある佐々木先生だった。
佐々木先生は音楽室サイドの廊下で偶然サトーの奏でる音色を聞き、この学校にこの曲をリコーダーで奏でる輩がいるのか?
と思わず音楽室へと足を向けたらしい。
静寂が戻った音楽室で、サトーはまだ他の生徒が誰も来ないことに安堵し気を抜いていたのだが、
そこへ、突然背後から声が掛かる。

「君、なぜその曲を知っているの?」

驚いたサトーはギクリと振り返ると、そこには佐々木先生が立っていた。
不意を突かれたサトーは、恥ずかしさで顔が真っ赤になり、うつむいたまま「いや…別に…」
と小さく呟く。
それ以上言葉が出なかった。

佐々木先生はサトーの名札をちらりと確認すると、「ふーん…」とだけ言い残し教室から去って行ったのだが・・・。


佐々木先生はリコーダー同好会の顧問だった。
バロック音楽への造詣が深く、どんな楽曲も初見で操った。

実は、その頃のリコーダー同好会は市民音楽祭への参加を目前に控えて深刻な危機に直面していた。
わずか四人しか居ない部員のうちの一人が、突然の長期入院で離脱することになってしまっていて、代打ちの助っ人が必要だった。
事更に地味で人気のないリコーダー同好会には、新たに入部を希望する生徒など全くおらず、佐々木先生は頭を抱えていたのだった。

そんなある日、佐々木先生は廊下で耳にしたロドリーゴの名曲

「ある貴紳のための幻想曲」

のサトーが奏でる美しいワンフレーズに心を奪われた。

まさかこの学校の生徒が、しかもヤンチャ風情のこの粗野な小僧が、そんな曲を知っているとは夢にも思わなかった。
後談だが、佐々木先生はその瞬間、かなり興奮したらしい。

それ以来、佐々木先生はサトーに対する執拗な勧誘を始めた。学校のどこででもサトーを探し出しては、熱心にリコーダー同好会への入部を勧めるのだった。サトーは当然、強烈に嫌悪感をあらわにし、何度も断り続けたのだが・・・。
しかし、佐々木先生は諦めなかった。
その情熱と誠意に触れるうち、サトーの心の中に少しずつ変化が生まれていた。
「一度だけでいいから、部室に顔を出してくれないか?」

と佐々木先生が懇願したとき、サトーはしばらく考えた後、重い口を開いた。
「一度だけなら…」

そう言って、ついにサトーは佐々木先生に懐柔され、同好会の部室に足を踏み入れることとなってしまった・・。

サトーが足を踏み入れた「部室」は、実際には放課後のただの教室だった。
そこには三人の女子が練習に励んでいて、二人は一年生で、サトーには見知らぬ顔だったが、もう一人の三年生だけはよく知っていた。
彼女の名は深川さん。
全校集会や卒業式などのイベントで、いつも美しいピアノ演奏を披露している才女だった。
しかも上品で清楚・・・。彼女を推す信者はかなり居たはずだ。

「あ、深川さんだ…」

サトーはその瞬間、心に隙を作ってしまった。
深川の端正な顔立ちと近くで感じる彼女の優しいオーラに、つい顔が綻んでしまったのだ。
不覚!
先生は、サトーのわずかな心の動きを敏感に察知し、狡猾に仕掛けを打ってきた。

「あ、深川~、サトー君にコントラバスの運指を教えてあげて。」

その言葉をきっかけに、サトーはまるでアリジゴクの巣に引きずり込まれるように、深川先輩の手の中に落ちていくことになった。
深川はサトーに巨大なバスリコーダーと譜面を手渡し隣に座ると、身体を寄せながら、手取り足取り、いや、手取り指取り指導を始めた。

「はい、これがC、・・Dはこう・・、そしてこれがE・・。」

深川先輩の温かい指が、空手部サトーのゴツゴツした指に触れる・・。
サトーはドキドキした・・。

「あぁ先生、これって反則じゃないか…」

サトーは心の中でつぶやく。
しかし、この時点で彼はすでに佐々木先生の仕掛けたハニートラップにしっかりと捉われていたのだった。

深川さんの息遣い、そして髪から漂うフルーティーなシャンプーの香りが、サトーの理性を次第に崩していった。先輩のあまりにも近い距離感とその穏やかな指導に、サトーはあっさりと陥落してしまう。

リコーダー同好会は、この学校の中でも飛び抜けて存在感が薄く、多くの生徒たちにとっては記憶に残らない地味なクラブだった。
しかし、サトーにとっては次第に特別な場所になりつつあった。

それから彼は空手部の練習を早めに切り上げ、毎日リコーダーの練習に参加するようになった。深川先輩や他の部員たちとの時間は、サトーにとって新たな刺激と喜びを与えてくれたようだ。

さてやがて、市民音楽祭の日がやってきた。
サトーは深川先輩のおかげで、何とか曲を覚え、ステージに立つことが出来るレベルに仕込まれていた。

しかしいざ広い会場のステージに放り込まれてしまうと、その独特な雰囲気や聴衆の視線に圧倒された。
緊張で膝頭が震えた。そんなサトーを、隣に立つ深川先輩が優しくサポートする。
彼女は、自分のパートを見事に演奏しながら、横目でサトーの様子を把握して、顔の動きとアイコンタクトでリズムとタイミングを導いてくれた。
その姿はまるで、何人もの話を同時に理解する聖徳太子のようだった。
凄い才能!
サトーにとってこんなに頼れる存在はなかった。

佐々木先生の選曲センスと演出は見事で、ステージ全体が一つの作品として完成していた。サトーは、自分のぎこちない演奏が他のメンバーの力によってカバーされていることを感じながらも、全力で演奏に集中した。彼が思う以上に、ステージは成功を収め、演奏が終わると同時に、会場から大きな拍手が沸き起こった。
その拍手の音は、サトーの胸に深く響く。



さて残念な事に、音楽祭が終わった後のサトーは元のヤンチャな小僧に一瞬で戻ってしまった。

あくまでもワンポイントの代打でと言う約束だったので、サトーには何の躊躇も無かった。
それ以後はリコーダー同好会の存在すらすっかり忘れてしまったくらいで、
ひたすら通常営業に移行したのだった。

同好会の方も、入院していたメンバーが復帰し、普段の活動に戻ったようだった。
ただ、深川先輩との距離が少し遠くなってしまったことだけが、サトーにとって少し心残り・・・。
とはいえ、廊下ですれ違うときに挨拶を交わす程度の関係が続いていたので、サトーはそれで良しとしていた。

翌年の三月、深川先輩はサトーに甘く爽やかな想い出を残して卒業して行く。

やがてサトーは3年に進級した。
そして高校生活最後の学校祭の日がやってきた。

実は、これまでの学祭にはまったく興味を持たず、見向きもしなかった彼だったが、最後の年くらいは参加してみるかと、いつもの小僧仲間と一緒に行くことにしたのだった。

その日は遅めに登校し、模擬店でフラッペを食べながらゆったりと過ごしていたのだが、ふとクラスの女子がサトーに声をかけて来る。

「サトー、さっき放送で呼び出しされてたよ~。」

その言葉に、サトーは一瞬焦った。
何かまたやらかして、それがバレたのかと不安がよぎる。
次の瞬間、サトーの担任が慌ただしくやってきた。

「おいサトー、今すぐ職員室の佐々木先生のところへ行ってくれ!急いで!」

担任の急かす声に、サトーは戸惑いながらも職員室に足を向けた。
しかし・・・、
リコーダー同好会とはもう縁が切れているし、佐々木先生が自分を呼び出す理由がまったく思い浮かばなかった。仲間たちも、何か問題を起こしたのではないかと不安そうに見つめている。
実は佐々木先生は、厳格な生徒指導の教諭としても知られており、彼に呼び出されるのは普通の事ではなかった。

サトーは心の中でいくつものシナリオを思い浮かべながら、職員室へと急いだ。やがて職員室の扉の前に立ち、深呼吸をしてから入室した。

「何っすか先生。」

サトーがぶっきらぼうに申し向けた。

佐々木先生は真剣な表情で彼を見つめる。
サトーは緊張しながら、俺は何かやらかしたのかと心の中で自問した。

「サトー、君に急いで頼みたいことがあるんだ。」

佐々木先生の口調はいつもと少し違っていた。厳しい中にも、どこか柔らかさを感じるトーンだった。サトーはますます訳が分からなくなり、黙って次の言葉を待った。

「実はな、ウチのコントラバスが急に高熱で倒れて学際のステージに出られなくなってしまってさ・・。だから、申し訳ないがサトーにもう一度助けて貰いたいんだよ・・。」

その言葉を聞いた瞬間、サトーは驚きと戸惑いで頭が真っ白になった。
自分がまたリコーダー同好会の一員としてステージに立つなんて、
全くアウトオブ眼中だ!

「えっ…俺がですか?」

サトーは混乱しながらも聞き返した。佐々木先生は真剣な眼差しでうなずいた。

「君ならできる。いや、君にしか出来ない!去年の市民音楽祭での演奏を、私は忘れていない。代わりを務められるのは君しかいないんだ。」

サトーの心は揺れた。
何だかこんなに大人から頭を下げられ頼られているのがこそばゆかった。
今まで大人にこんなに信頼された事は無かったなぁ・・・。
サトーはしばらくの間、黙って考え込んだがやがて覚悟を決めたように顔を上げて言った。


「先生、冗談じゃないです!さすがに無理です!去年の音楽祭には、絶対に身バレしない環境だから渋々OKしたんですよ!学校でなんかできるわけないし、俺のメンツが丸潰れじゃないですか!今までヤンチャを通してきた俺が、得体のしれないデカイ笛を持ってステージに上がるだけで、人生詰みますって!しかも、ヤンキー小僧達がドッサリ見てる前で、生き恥を晒すなんて拷問級ですよ!」


サトーは必死に訴えた。
今まで築き上げてきた「ヤンチャなサトー」というイメージとプライドが崩壊する。自分の人生が終わる、とさえ感じた。

佐々木先生は、サトーの熱い訴えを黙って聞いていた。温和な表情を崩さず、じっと彼を見つめ続けていたが、やがて静かに一言だけ言った。

「サトー、頼む…助けてくれ…」

その言葉には、これまでの佐々木先生の態度からは想像もできないほどの真剣さと、深い思いが込められていた。佐々木先生の熱い眼差しは、サトーの激しい抵抗を静かに治めて行くのだった。

「サトー、曲目は去年の音楽祭の時のものに変えるし、出番はプログラムの1番目だ。この時間帯は、例年観客も疎らだし、大丈夫だ。だから、どうか頼む!」

人格者として全ての教職員から慕われている佐々木先生が、ここまで真剣に頼んでいる。サトーは、その真摯な姿勢に心を動かされてしまった。普段は絶対に引き受けないようなことだったが、先生の熱意に負けたのだ。

「わかりました。やります。」

サトーは重い口を開いてそう答えた。
佐々木先生の熱いパッションが、再びサトーの心を打ち、動かした。


さて、そうと決まったら、もう時間がない!
少しでも練習をしなくては…とサトーは焦った。

職員室を出ると、廊下には三人の女子が固唾を飲んで待っていた。
二人は去年の音楽祭で一緒にステージに立った二年生のメンバー。
もう一人は、今年新たに入った一年生だった。
サトーが職員室から出るや否や、三人は駆け寄り、涙ぐみながら

「先輩、ありがとうございます!」と感謝の言葉を口にした。

「さぁ、もう出番まで40分しかない。大至急合わせるぞ!」

焦る気持ちを押さえつつ、サトーは三人を連れて音楽室に駆け込んだ。楽器を手に取り、急いで曲の合わせを始める。時間が限られている中、何とか全体の流れを確認し、最低限の練習を終えると、もう出番の時刻が迫っていた。

「プログラム1番、リコーダー同好会の演奏です…。」

PAが告げた。

演奏時間は15分にも満たない。サトーは

「たった15分さえ我慢できればなんとかなる」

と自分に言い聞かせながら、ステージ袖の階段を登った。しかし、その楽観的だった気持ちは、緞帳がゆっくりと上がるにつれて急速に消え去って行く・・・。

「ウググ、、、くそっ!」

緞帳が完全に上がりきった瞬間、サトーの視界に飛び込んできたのは、ほぼ満員の会場だった。

そして、ステージの上にはまるで場にそぐわない意外な人物がでかい笛を抱えて立っていた・・。

次の瞬間、会場にどよめきが広がり始めた。後ろの方を見ると、サトーの悪ガキ仲間たちがオールスターのように集まっていた。

「あぁ、こんな事って・・・。ば、罰ゲームか!」

サトーの顔からは真っ赤な炎が沸き立ち、
その炎が羞恥心の詰まった鍋をグラグラと沸騰させる。
思考が停止する・・。

全身から滝のような汗の流れを感じた時、小僧達は下品で嵐のような爆笑とヤジを飛ばし始める。

「おー、なんだお前~、笛吹けんのか~?」
「や~め~ろって~!!」
「マジ受ける!」



と、心無い声が飛び交う中、サトーはもうどうにもならないと諦め、腹を括って演奏を始めた。

最初の曲が始まっても、ヤジは途切れず続いていた。しかし、やがてサトーの顔から緊張の色が消え、シンプルだが美しい四重奏の響きが整い始めると、会場は次第に静まり返っていった。

曲が終わったとき、会場は不思議なくらいに静かだった。誰も拍手すらしない・・・。
サトーと三人の女子は椅子から立ち上がり、礼をして舞台袖へと向かって歩き出したその時・・・!

突然、会場がドッと湧き、拍手と歓声が沸き上がったのだ。

「ウオーーー!」「サトー、サイコー!」
「お前、やべーな!」

悪ガキ仲間たちの声が、サトーの心に深く突き刺さった。
それまで彼を嘲笑していたはずの声が、なんと15分後には賞賛に変わっていた。
サトーは堪えきれず、笑いながら涙を流した。
鳥肌が立った・・!
三人の女子も、皆泣いた!
ステージの下では佐々木先生は腕を大きく広げて迎えてくれた。

先生もまた、ボロボロと泣いた。

五人はその場で一つの塊になり、互いに抱き合いながらひとしきり泣き続けた。

実は、この弱小同好会。これまでこんなに拍手を貰った事がなかったらしい・・。
しかし、この日のステージは、何か特別なマジックに掛かったよう!

サトーの心の変化と共に、ステージ全体が感動を呼ぶ一体感に包まれていた。

佐々木先生、よく俺を見つけてくれたね・・・ありがとうございました。

ひたすらに感謝するサトーはこの時以後、アウトサイドな人生の立ち位置を見直し、正しい道を歩んで行く事に目覚めるのだった。



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この日を境に、我が伝統ある栄光の空手部は、

「笛も吹ける空手部」

として名を残すのでした。(ここは笑う所です。)

この記事は人物名以外はノンフィクションです。


冒頭の10秒がそのイントロ。
このメロディーを覚えていた事が佐々木先生と出会う切っ掛けになり、私の外れかけた人生を変えてくれたのだと思います。


過去記事の小説、「光男」ですら3000文字なのにこれは6000文字を超えてしまい、何だか纏まらない記事になってしまいました。
何度も読み返すと、自分は益々ものを書くのがヘタだと言うのが浮き彫りなってしまい苦しいです。笑

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