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火の山廿一 第二章 魔王と魔性の女「夜明け前踏切で女の首が転がったなら」

 水月から電話が初めてかかった時、僕の世界は微妙に変化した。そして、今、百合と出会って、僕の世界は再び変貌しつつある。
 淡い水彩画の絵から、幾重にも原色を塗り重ねたようなそんな風景。僕は官能的な世界に閉じ込められ、苦しい快楽に喘いでいた。
 苦しい快楽ーー百合の指や唇が僕の全身を這うたびに、僕は身震いするほどの快楽を感じるのだが、その一方で僕の精神はねっとりとした、重苦しい空気に息も絶え絶えになった。

 水月が僕の前から遠のいていく。
 僕は水月を取り戻そうと、必死に手を差し出したが、その瞬間、百合が僕の唇を血が滲むほど強く噛んだ。
「消して、あなたの瞳の奥に、またあの女がいる」

 K大学の中央広場に沿った道を抜けて、時計台に突き当たったら、左に折れるように細い道が続き、その道の両側にはぎっしりとクラブの新入生勧誘の立て看板が並んでいる。
 学生達が銀座通りと呼んでいる、最も人通りが激しい小道である。

 「絵夢だ」
 と、彼らが言った。
 僕は驚いて、その女の顔を見た。
 女は真っ直ぐに僕の顔を見返した。
 それは本当に起こったことだろうか。
 学生食堂で、僕はゼミの友人達と数本のジュースを廻し飲みしていた。一本のジュースに複数の友人達が口を付けることにより、無言のうちにお互いの信頼を確かめ合う、それは昔から続いていた神聖な儀式である。
 だから、神経質な男も目をつぶって、黙ってビンに口を付ける。
 絵夢は人波を掻き分け、僕に向かって近づいてくる。
 視線を僕一人に向け、決して逸らそうとしない。
 僕は次第に頬を赤らめる。女は大事な用事があるのか、漆黒の瞳で僕だけを見つめている。
 僕にはその女が思い出せない。
 いったいつ、どこで会ったのだろう。

「彼女は、誰だよ」と、僕が言う。
「絵夢だ」と、Kが答える。
「絵夢って、誰だい?」
「えっ、本当に知らないのか? 冗談だろ? 僕たちと同じゼミじゃないか」
 そんなはずはないと思う。僕はゼミの女の顔ならすべて覚えているが、その中に彼女の顔はない。
 絵夢はつやつやとした黒髪を肩の先で揺らし、黒目がちな瞳には妖しげな光を宿していた。
 小柄で華奢な体つき、きゅっと締まった唇には真っ赤な口紅が塗られていた。
 もう冬が近づいているというのに、スカートの丈は短く、赤いワンピースが学生食堂という場に似つかわしくなかった。

 絵夢は僕の目の前で、立ち止まった。
 僕は自然と体が硬直するのを感じた。
 間近で見る絵夢はすべてが小作りの顔で、可憐な美しさではあったが、どこか直線的な激しさを内に隠してるようだった。
「ねえ、私にも飲ませてよ」
 絵夢がガラスの破片のような、固い調子で言った。
 僕は手の中のジュースのビンを見て、躊躇した。絵夢は透き通るほどの白さで、小さな唇だけが異様に赤い。その唇が自分の手の中にあるビンに触れるかと思うと、奇妙な気分だった。

 僕はすっかり金縛りにあってしまった。
 絵夢の視線が、鋭い声が、僕の神経に絡みつき、それは官能的な響きを持って、僕を虜にした。
 そうだ、僕は一瞬のうちに、絵夢のすべての虜になったのだ。
 僕は何かを言おうとしていた。
 でも、僕の唇は凍りつき、体はゼンマイ仕掛けの機械のようにぎこちない動きしかできない。
「ねえ、お願い」
 絵夢が再び言った。
 僕はビンを持った手を差し出そうとしたが、やはり体は金縛りにあったままだった。
 絵夢は身じろぎ一つせず、僕の前に真っ直ぐに立ち、いつまでも眼を逸らそうとしない。
 時間が奇妙な重たさで、淀んでしまった。

 気がつくと、ゼミの友人達が二人を取り囲むようにしている。その中で、僕と絵夢が睨み合っているといった、おかしな構図ができあがっていた。
「お前は駄目だ」
 Kが突き刺すようにいった。
  僕は一瞬、自分の耳を疑った。あの温厚なOまでが、絵夢の肩を突いて、「お前は汚いから、駄目だ」と、吐き捨てるように言った。
 絵夢の眉はみるみる吊り上がり、顔面は蒼白だった。
 KやOを無視するように、僕だけを睨みつけ、「ねえ、いいでしょ?」と、微笑した。
 僕はその時何かを答えなければならなかったのだ。
 しかし、体は硬直したまま、絵夢の赤い唇だけを見つめていた。口の中がカラカラに乾いて、自分の意志に反して言葉が出てこない。
 僕は指先に力を込め、ようやくのことで手を差し出そうとした。でも、全身の筋肉が僕のシグナルを拒絶したかのように、僕は僕の体を自由にできなかった。
「ネエ、飲マセテヨ、アナタノガ飲ミタイノ」
 絵夢がすっと白い腕を僕の前に差し出した。

 それはすべて靄の中で起こった出来事のようだった。
 何もかもが漠然としていて、明確な記憶の後を留めていない。
 それは悪夢だったのだろうか。
 すべてが恐ろしいまでのリアリティを持って僕に襲いかかり、僕の全身は汗でぐっしょりと濡れる。だが、夢から覚めて、それを思い起こすと、リアリティはすっかり色あせ、僕はその滑稽な出来事をゴミ箱に棄てるように、記憶の彼方に消し去ってしまう。
 でも、その出来事のディティールは失われても、あの時の奇妙な感触だけは決して消し去ることができない。
 そんな感じだ。
 KやO、そしてFまでもが絵夢を責め立て、僕一人だけが蚊帳の外に置き去りにされる。いったい何が起ころうとしているのか、僕は一人理解できないでいる。

「お前は汚いから、駄目だ」
 Oがそう言って、絵夢の肩を強く押した。
 絵夢は血が滲むほど唇を噛みしめ、きっとOを睨みつける。
 すると、今度はKが「消えろよ」と、絵夢に言う。絵夢はそれを無視するように、僕に向き直り、「飲マセテヨ」と言った。
 僕には彼らがなぜ絵夢を排除しようとするのか、その理由が分からない。絵夢は一目見た時から心臓がときめくような、妖しくはあるが、人を惹きつける美貌を持っているのだ。
 僕は脇の下にぐっしょりと汗をかいている。
 Fが小馬鹿にしたような態度で、「お前は汚い」と笑った。
 絵夢は顔面蒼白となり、「死ンデヤル。死ンデヤル」と呪文のように繰り返している。

 死ぬ?
 絵夢は本当に死ぬのだろうか?

 「早く死ねよ」と、彼らが口々に言う。
 絵夢は彼らを無視し、なぜか僕を恐ろしい形相で睨みつける。長い黒髪を振り乱し、蒼白の表情に、唇だけが赤い絵夢は、極彩色の絵画の世界から抜け出たようだ。
「覚エテイラッシャイ。私、本当ニ死ヌンダカラ」
 絵夢は激しい形相で、そう言った。でも、その表情は些細な衝撃でも、突然泣き出しそうだった。
 彼らは一斉に笑った。
「どうせ死ぬ勇気なんかないよ」と、Kが言う。
「死ヌワヨ」と、絵夢が睨みつける。
「お前が死ぬという証拠を見せろよ」と、Fが言う。
「死ヌト言ッタラ、必ず死ヌワ。デモ、証拠ハ見セラレナイ」
 絵夢はすっかり逆上し、全身を震わせながら、そう言った。
「そんなもの、信じられないよ。どうせ口だけだ」と、Oが言う。
「約束しろよ」と、K。
「それなら、俺たちの目の前で死んでみろ。どうだ、できないだろう?」と、Fがにやけた調子で言った。
 絵夢はじっとうつむいて、何かを考えているようだった。そして、きっと顔を上げ、周囲を見回すようにして、「分カッタワ。明日、アナタタチノ眼ノ前デ死ンデヤルワ」と言った。
 彼らは一斉に声を上げて、笑った。
「本当だな。いったいどうやって死ぬんだ」と、Oが言う。
「明日ノ、朝一番ノ電車ニ飛ビ込ム」
「俺たちの目の前でやるんだ」
「モチロン、ソノツモリヨ」
「そうでないと、証拠にならない」
「分カッタワ」
 絵夢はゆっくりと頷いた。

「私、キットヤルワ。ソノ時ニナッテ後悔シテモ、遅イワヨ」
 絵夢が髪を逆立て、目を吊り上げている。
 顔面蒼白で、こめかみの血管だけが青く盛り上がり、人相はすっかり変わってしまった。
 彼らは腹を抱えて笑っている。
 誰も絵夢の自殺を本気にしていないのだ。
「おい、今更冗談だったなんて言うなよ」
 Kが更に追い打ちをかけた。
 絵夢がKをきっと睨みつける。あまりにも強く唇を噛みしめたため、ほんの少し血が滲んでいる。
 僕には絵夢が本当に自殺するように思えて仕方がない。
 何とかなだめようと思うのだが、言葉が喉に引っかかり、出てこないのだ。
「私、本気ヨ」と、絵夢が何度も繰り返し、その度ごとに彼らは大げさに笑った。わざと絵夢を死に追い込もうとしているかのようだ。
 絵夢はなぜが僕だけを睨みつけている。
 私が死んだら、あなたのせいよ、絵夢の瞳はまるでそう言っているようだ。
 絵夢の唇が何かを言おうとしている。
 きっとひどく恐ろしい言葉だろうと思う。言いようのない恐怖が、僕の心臓を鷲掴みにした。
 絵夢はいったい何を言おうとしているのか。
 僕はどうしていいのか分からず、ただその場で立ち尽くすだけだった。
 そうして、時間はそのまま凍りついてしまった。


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