火の山十 第二章 魔王と魔性の女「かぐや姫が月の世界に帰るとしたら」

 水月が別れを告げた理由がどうしても呑み込めなかった。
 水月の母の病気と僕との別れ話にどんな因果関係があるというのだろう。確かに水月を疑ったことは僕の過ちかもしれないが、水月に会えないことでそれだけ追い詰められていたことを、どうして理解してくれないのだろうか。嘔吐を抑えながらキャンパス中、水月を探し回ったことが今となっては虚しく感じる。激しい虚無感の後、水月が別れを告げた理由を考え続けた。その理由も告げられず、一方的に別れを宣告され、しかも、その後会うことも許されないとは、何と残酷な仕打ちだろうか。
 母親に僕との交際を断てと命じられたのか、僕を嫌いになったのか、他に特別な事情があるのか、いくら考えてもらちがあかなかった。水月と直接会って、話を聞くしか納得しようがないにも関わらず、僕の方から一切連絡をすることが許されない。水月は何の情報も僕に残さず、姿を消してしまったのだ。

 ふとあの時の水月は別人だったのではないかという考えが浮かんだ。その考えは初めは一点の影ほどに過ぎなかったが、次第に僕の脳裏に広がっていき、いつの間にか確信めいたものへと変貌していった。黒髪は少し伸びたようだったが、水月の目も鼻も口も、ほっそりとした肢体も何の変わりがなかった。だが、以前感じたよりも、水月の醸し出す雰囲気に透明感がより加わっていた。もともと幽霊というあだ名ではあったが、存在感がないのではなく、むしろ肉体を感じさせない存在感を遺憾なく発揮していた。しかし、あの時の水月はそれとは異なり、たとえば肉体を脱ぎ捨て、魂だけになっていくような、そんな希薄さを僕に感じさせていたのだ。僕は何としてももう一度水月に会い、彼女の肉体を取り戻さなければならない。水月の魂をこの地上に留めなければならない。第一、確かめなければならないことがあまりにも多すぎた。

 ところが、大学のゼミに、水月がいつもと変わらない様子で現れたのだ。教室の後ろから彼女の姿を見かけた時、僕は今にも心臓が破裂しそうだった。講義の内容など上の空で、ただひたすら終了のチャイムが鳴るのを待ちわびた。教科書類をかばんに詰め込み、いつでも飛び出せるように準備をした。そして、終了と同時に、教室前方へと駆け出した。
 椅子と椅子との間の通路は前方にいた学生が塞いでいた。僕は彼を強引に押しのけて廊下に飛び出したが、すでに水月の姿は見えなくなっていた。校舎の外に出て周囲を見渡したが、そこには水月の姿はどこにもなかった。大学の門を入ってその正面に、時計台と図書館が見える。そこまで歩いて行くと、ふと背後に人の気配がした。慌てて振り向くと、そこに水月が立っていた。
 水月はほんの少し見ない間にも、更に透明感が増していた。体に指で触れただけでも汚れてしまいそうなほど、無垢な感じがした。そして、その透明感が逆に僕を緊張させた。そんな水月をどのように扱っていいのか、僕には分からなかった。ふと水月はかぐや姫ではないかと思った。無垢なかぐや姫は塵芥にまみれた俗世では生きていけないので、月の世界に帰らなければならない。それはどうしようもない宿命で、地上の人間がそれを阻止する術はない。

「よかった、やっと会えたよ」
 僕がかろうじてそれだけ言うと、水月はそっと微笑んだ。
「この前はごめんなさい。自分で自分の感情をコントロールできなかったの」
 僕たち二人は肩を並べてキャンパスの奥の方へ歩いて行った。僕は水月にかける言葉を懸命に捜していた。しかし、最初の一言がどうしても思い浮かばない。だから、黙ったまま、どこまでも歩き続けた。
「ねえ、怒っているの?」
 僕は黙って、首を横に振った。
「よかった。それならこのまま裏山まで歩いて行かない?」
 今度はゆっくりと首を縦に振った。
「変な人」と、水月がくすりと笑った。
 K大学はその裏に小高い山を抱えていた。そこに至る道は比較的緩やかなカーブで、道の両側には洒落た家が建ち並び、学生達の散歩道になっている。冬が近づいているので、流石に人影もまばらである。水月の雰囲気が前回とは違って、非常に柔らかかったので、逆にそれが僕を不安に駆り立てた。水月の唇から今度はどんな言葉が飛び出すのか、僕は決して気を緩めることができなかった。
「まだ怒っている?」
 僕は再び首を横に振った。
「本当に怒ってない?」
 水月が優しい調子で言う。時折北風が頬を打ち、その度にぞくぞくと背中が震えた。
「寒い」と、水月が呟く。
 僕はそっと水月の手を握りしめた。彼女の手は思ったよりも小さく、柔らかかった。そして、ひんやりと冷たい。僕は水月が僕の手を拒絶するのではないかと、体を硬くした。だから、水月が僕の手を強く握り返してきた時、思わず鼓動が高鳴った。水月は逆に体を寄せてきて、僕は思わずよろけそうになった。
 二人は寄り添うように山道を登って行った。道は次第に細くなり、やがて舗装されていない道へと続いていく。
 僕は黙ったままだった。いや、何も言えなかったのだ。今、水月の脳裏にどんな情念が渦巻いているのか、僕はそれを知ることが怖かった。水月はなぜいきなり別れを一方的に告げ、今再びこのように情愛を示してくれるのか。あの時の水月とは別人なのか。ただ水月の小さな掌を通して、二人の肉体がつながっていることに、不思議な安らぎを感じていた。
 山の中腹までたどり着いた時、水月が「ほら、あそこ」と、大きな岩を指さした。丁度二人が座れるくらいの大きさの岩で、その背後には大きな楓が真っ赤に染まっていた。
「私、何か考えごとがある時、よく一人でここに来るの。あの岩に座って、いつまでもいつまでも一人で考えるの」
「それで、今はあの岩の上で二人で考えたくなったの?」
 と、僕が聞いた。
「そうねえ、二人のことは二人で考えなければ、私一人ではどうにもならないものね」と、水月が微笑んで言った。

 岩の上には丁度二人分の窪みがあった。二人してそこに腰をかけると、どうしても肩と肩が触れ合うことになる。僕は体を硬くし、それでいて肉体の接触を通して、何とか水月の心の波動を読み取ろうと、意識を集中させていた。
 僕たちは来た道の方向を背に、山の麓の方角を見おろした。僕たちの正面には風景を遮る木々が一本もなく、見事に視界が開けていた。そこからは澄みきった秋の空と、麓に点在している住宅が見える。木々は赤く色づき、山の所々が燃えているみたいだ。
 僕は水月になんて話しかけたらいいのか、分からなかった。
「もう会わない方がいい」と、あの時水月ははっきりと僕に言った。僕はその言葉の余韻を、未だに引きずっている。水月の気持ちを変えさせる言葉を探して、戸惑った。第一、水月の心があまりに遠くなってしまい、どうやって引き戻せばいいのか、その手段が思い浮かばない。
 咄嗟に出た言葉が、「水月と一緒じゃないと、僕一人では生きていけないよ」だった。あまりに唐突の言葉に、僕自身言葉を発した後、舌のざらつきを感じていた。
 水月はしばらく黙ったまま、じっと麓の景色を眺めていた。北風が吹くたびに、水月の黒髪が彼女の頬を撫でる。僕は水月の言葉を待った。彼女の言葉から、別れの言葉がこぼれ落ちるのを恐れた。その沈黙の長さに、僕の意識が遠のきそうだった。
 僕は水月の手をぎゅっと強く握りしめた。その手を振り払われるのではないかと、その一方で怯えていた。
「私もよ」
 と、水月が小声で言った。
「えっ?」
 僕は思わず水月の顔を眺めた。水月は少しうつむきがちに、
「あなたに会えなくて、辛かったわ。ひとりぼっちで、本当に寂しかったの」と言った。
「それなら、なぜ?」
 水月がゆっくりと首を横に振る。
「私にも分からないの。だからこそ、一人でゆっくりと考えたかったの」
「何を?」
「私の母のこと。そして、あなたとのこと」
「お母さんって、水月を棄てた人のこと?」
 水月は頷いた。僕は水月の言葉を一つも聞き漏らすまいと、体を硬くした。

 ある時、母が突然帰ってきたの、と水月が言った。
 私を棄てた母が帰ってきた。何の前触れもなく、ぶらりと帰ってきたの。私、本当にどうしたらいいのか分からなくて、戸惑ったわ。私の胸の中には今でも母に棄てられた心の痛みが鮮烈に残っていて、時折傷口がズキズキと痛むの。でも、その一方どこかで母を求める気持ちが残っているのも疑うことができないでいる。
 母は男に棄てられ、ひとりぼっちになって、私のところに戻ってきた。母は病気だった。若い時はあれほど艶やかで、肌もなめらかで弾力性があったのに、今ではすっかり衰えて、分厚い皮膚はかさかさに黒ずんで、見る影もなかったわ。すっかりと痩せて、顔色も悪く、そして、私の前でもなぜかおどおどしていた。
 私、母を目の前にして、涙がポタポタ落ちて、止まらなかった。自分でもどうしようもなかったの。あれほど憎んだ母だったのに。
 母は暗い目をして、私をじっと見つめていた。お前を棄ててから、一日も忘れた日はなかった。母は繰り返しそう訴えかけるの。それが本当かどうかは私にも分からないけど、やはり私の目からは涙がこぼれ落ちて、止まらなかった。私は母を強く抱きしめながら、思ったの。やはり私は母の子どもであって、どんなひどい仕打ちを受けてもその事実から逃げ出すことはできないって。
 洋(よう)、どうしてあなたと別れようと思ったか、分かる?
 もちろん洋が必要だっていう気持ちは、今でもちっとも変わっていないわ。でも、私、母の看病をしながら、だんだん分かってきたの。
 洋と私とはもともと住む世界が違うって。
 私には母の血が流れている。母の汚れた、ドロドロに血が流れている。だから、母はどんなことがあっても、私を追いかけ、私に縋り付こうとする。洋、私といたら、あなたまで引きずり込まれてしまう。これはどうしようもないことなの。
 洋、あなたは私と違った世界にいる。それが私にははっきりと分かるの。でも、それは洋にとって、とっても素晴らしいことだわ。あなたは何の汚れもない、キラキラとした透明な世界にいる。それが私には眩しかったわ。
 私、あなたに連絡場所も何もかも教えなかったのがなぜなのか、分かる?
 私はあなたに知られるのが怖かった。私があなたの世界をどんなに恋い焦がれても、私と洋とは決して一つになれない。あなたまで私の汚れた世界に引きずり込むことはできない。私があなたの前で幽霊でいられるうちは大丈夫だったのだけれど、あなたに抱きしめられた時から幽霊ではいられなくなった。肉体を持った一人の女性としては、あなたを求めることはいけないことなの。

「僕には全然分からないよ」
 僕は吐き出すように言った。
「僕と君の世界のどこが違うって言うんだい? 同じ人間だし、何も異なるところなんて一つもないよ。僕にはよく分からない。僕だって、父を交通事故で亡くし、母親には棄てられ、養護施設で育ったんだ。決して裕福ではなかったし、いつも孤独を抱えていた。君のお母さんとはきっと上手くやれるよ。上手くやれるように、努力するよ」
 水月は悲しそうな目で僕をじっと目詰めた。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん、あなたには分からないのよ。私はもうすっかり汚れてしまっている。洋には、想像もつかない世界に私たちは生きてきたの。それは私と母との二人しか分からない、洋には絶対理解できない世界なの」
「何も変わらないよ。水月が汚れているというなら、僕だって汚れている。第一、汚れていたって、かまわない」
 僕は思わず声を上げた。昂ぶった気持ちを抑えきることができなかった。
「違うのよ、そんなことじゃない。私はーーーーーー」
 そう言いかけて、水月は口を噤んだ。水月の瞳から大粒の涙が一筋流れた。僕にはその涙が意味が分からなかった。
 水月は暫く思い悩んでいたようだが、ようやく決意したように私の顔を見つめ、「母がどうして私を棄てたのか、あなたにその理由が分かる?」と言った。
 僕はただ黙っているほかなかった。ただ胸が苦しくて苦しくて、呼吸をすることさえ困難だった。
「私の母は商売女で、いつも酔っ払っていた。酔っ払っては、別の男を家に引きずり込んだ。何度目かの義理の父を迎えた後、母は私を公園に棄てたの」
 僕は驚いて、水月の顔を見上げた。
「どうして? 義理のお父さん、君が邪魔だったの?」
 僕は恐る恐るそう聞いてみた。水月は首を小さく横に振った。
「そんなことなら、これほど苦しむことはなかったわ」
 水月の目から、大粒の涙が零れた。涙は次から次へと落ちてきて、どうにも止まらなくなりそうだった。
「では、どうして?」
「いくら話しても、洋には分からない。なぜ私が棄てられなければならなかったのか、なぜ私とあなたとの世界が違うのか、いくら説明しても、あなたには理解できない。これ以上洋を引きずり込むことはできないから、私は一人で抱え込んで生きるしかないの」
 僕は次の言葉が出てこなかった。説明しても理解できないと突き放された以上、僕には返答する言葉を持たなかった。しかし、目の前で大粒の涙を流す水月がたまらなく愛おしかった。そうだ、暗い闇を抱えたままの、そんな水月を愛すればいい。そう思うと、体の芯から力が湧いてくるのを感じた。
「もういい、それ以上話さなくてもいいよ。水月には僕が理解できないほどの闇を抱え込んでいると分かっただけで、充分だ。そんな水月をそのまま僕は抱き留めたいんだ」
 僕がそう言うと、水月は驚いた目で僕を見上げた。
「ほんと?」
「ああ、本当だ。僕にとって、今の水月がすべてだ。過去のことなんて、どうでもいい。大切なことは、僕にとって水月が必要だという、そのことだけなんだ。僕は水月がいなければ、もう生きてはいけない」
 水月は目を大きく見開いて、じっと僕の顔を見つめた。あれほど涙を流した後なのに、涙は後から後から流れ出る。
「ほんとうにほんと?」
 水月がかれた声で言う。
「本当に信じていい?」
 水月の精神の内部で、何かが音を立てて崩れたようだった。固く他人を拒んでいた防御壁が崩れていく。水月の肢体が柔らかさを取りもどし、水月は涙を隠すように僕の胸に顔を埋めて泣いた。水月の体は温かかった。北風が吹きすさぶのも、もう気にならなかった。今腕の中で蠢いている温かな生き物をしっかりと抱きしめた。
 僕は大きく頷いた。水月は僕のそんな動作を感じたのか、最初は声を押し殺して泣いていたが、次第に唇から嗚咽が漏れ始め、ついにはしゃくり上げながら泣き出した。
「本当は寂しかったの。それに洋に知られることが怖くて、嫌われることが怖くて、洋を避けていたの」
「ばかだなあ」と、僕は水月の黒髪を撫でた。そして、水月のほっそりした体をもう一度抱きしめた。胸の辺りが水月の涙で暖かかった。両腕に力を込めると、水月の体は溶け出してしまいそうだった。こんな小さな体で、必死になって生きてきたんだ。僕はもう二度と手放すまいと、抱きしめる指に力を込めた。
 そして、僕は胸の中にずっと巣くっていた、僕の秘密を水月の前で手放したくなった。もうこれ以上、僕も一人では抱えきれない。
「僕だって、決して純粋無垢ではないよ。僕は父を二度も殺したんだ」
 水月は驚いたように、僕の胸から顔を話した。水月は訝しげに僕を真正面から見つめ、「それ、どういうこと?」と聞いた。
「一度目は交通事故、信号が赤になる瞬間、僕が飛び出した。危ない! 父の声が耳に飛びこんだ時には、僕は助けようとした父と一緒に車にひかれてしまっていた。幸い、僕は大した怪我にはならなかったけれど、父は昏睡したまま、今でも意識が戻らない」
「それで、二度目は?」
 水月が不安げに聞いた。
 今度は僕が秘密を打ち明ける番だった。
 
 

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