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火の山六 第一章 幽霊の世界「マスターが火葬場を連想したこと」

 例の喫茶店に、岡田と二人で行った。
 相変わらず、マスターが一人、退屈そうに煙草を吹かしていた。店内には客が一人もいない。やはり、学校帰りの夕暮れ時である。
「マスター、久しぶり」
 岡田が屈託のない声を上げる。
「おお、元気か」
 マスターはこちらを振り向き、軽く会釈する。
「聞いたろ? こいつ、例の幽霊とつきあっているんだって。なんで相手が俺でなくて、こいつなんだよ」
 そう言いながら、岡田は僕と並んでカウンターに座った:
 マスターは二人を交互に見比べながら、「まあ、幽霊の気持ちも分かる気がするな」と言った。
 僕と岡田は大学の同じゼミに属している。もちろん、水月も同じだ。
 岡田は背が低く、時代遅れの黒縁の眼鏡をかけている。小太りで、一見まじめに見えるが、それでいてどこか剽軽なところがある。
「マスター、水月はゼミ中の男の憧れの的だったんだよ。最初に、彼女から電話があった時、天にも昇る気持ちになったのに、なんてことはない。こいつの携帯番号を教えてくれだって。がっかりだよ」
 岡田が不服そうに言う。
 マスターは僕と岡田の前にちょっとした茶菓子を置いた。そして、岡田に優しく微笑みかけ、
「結果として、正解だよ。おかげで、洋は幽霊に取り憑かれてしまって、ほら、頬までげっそりとこけてしまった」
 と言った。
「マスター、よしてくれよ。別に取り憑かれてなんかいないよ」
 と、僕が言う。
「洋、水月はいったいお前のどこに惹かれたんだ? 俺だって、ずっと一人で水月を思っていたんだから、それくらい教えろよ」
 岡田が冗談めかして聞く。
 僕は珈琲をブラックで飲み、一息をついてから喋りだした。
「実は、僕と水月は幼い頃から、同じ夢を共有していたんだ」
「同じ夢?」
 マスターが怪訝そうな顔をする。
「うん。火の山の夢」
「火の山?」
 今度は岡田が身を乗り出して聞く。
「なんて説明したらいいんだろう? 僕が幼い頃から繰り返し見た夢なんだ。僕はまだ小学四年か、五年生くらいで、母に連れられてとぼとぼと歩いていた。お母さん、どこに行くのっていくら聞いても、母は黙ったままで答えてくれない。僕は不安で不安で仕方がなかった。やがて見知らぬ土地に着いた。そこはだだっ広い野原で、一面草が枯れていて、人のいる気配が全くない。その中央にほんの少し土を盛ったくらいの突起があり、そこに足を一歩踏み入れると、突然目の前に小さな山が現れたんだ」
「なんだかRPGみたいだな。ゲームのある場所に足を踏み入れると、突然イベントが始まる。まあ夢だから、それもありかな」
 と、岡田が言う。
「夢? 夢と現実なんて、いったいどこで区別をつけるんだい? 実際、僕は現実の中で母に棄てられたんだ」
 僕の激しい口調に、岡田はちょっと驚いた顔をした。マスターは黙ったまま、僕の話を聞いている。僕は話を続けた。
「僕は思わず足を止めた。その時、山の頂上の方に火が見えたんだ。何か動物が通り過ぎるたびに、ぼっぼっと火が吹き出る。火の山ーー僕はその時ふと、そう思った」
「火の山ーー」
 マスターがぽつりと言う。
「僕は母に手を引かれ、火の山に登っていた。それは小高い丘のようなもので、とても山と呼べる代物ではなかった。木々は子どもの僕の頭より少し高いくらいで、秋風に吹かれて少し色づいていた。突然、靄が辺りを包み込み、僕たちの視界を閉ざしてしまった。ふと気がつくと、母の気配がしない。僕は慌てて、まわりを見回してみる。辺りは静まりかえり、小鳥の声一つしない。どこか焦げ臭い匂いが鼻を突き、僕は瞬時に母に棄てられたことを理解した」
 僕は喉の渇きを癒やすため、ほんの少し珈琲に口をつけた。苦い舌触りが妙に粘り着いて、母を見失った時の戸惑いを思い出した。
「嫌な夢だな。俺も親に棄てられた夢を見たことがあるけど、あれって、寝覚めが悪いもんな」
 と、岡田が言う。
「それで、どこで水月と出会ったんだよ」
 と、言葉を続ける。その時、マスターは壁にもたれながら、真っ直ぐに僕を見た。何かを言おうとしているのか、ちょっと唇を舐めた。
 僕はそれにかまわず、話を続けた。
「僕は山の頂上まで登ろうとした。そこから周囲を見渡し、母の姿を探そうとしたんだ。ほんの数分歩けば、頂上にはすぐ着いた。そこは平たい台地になっていて、辺りは背の低い枯れ草しか生えていない。僕はすぐ反対側の端まで駆け出し、そこから身を乗り出して、何度も何度も母の名を呼んだ。山の下は靄がかかっていて、視界が悪く、僕は懸命に母の姿を探したけれど、どこにも見当たらない。身を翻して、別の端まで駆け出し、身を乗り出して母を呼ぶ。ふと、靄の中で母の後ろ姿が一瞬見えたような気がした。ほっそりとして、淋しそうな背中。僕が必死で叫び声を上げると、その背中が微かに揺れ、やがてどこにも姿が見えなくなった。僕は目を擦り、また再び目を凝らしてみる。あれは幻だったのか、もうどこにも母の姿らしきものは見えなくなっていた」
「洋、ひとつ、聞いてもいいか?」と、マスターが言う。
 僕は黙って頷く。
「お前のお母さん、その時何を着ていた?」
「えっ」
「服だよ、その時のファッションだ」
 僕は目をつぶって、その時の母の姿を脳裏に再現しようとした。母のほっそりとした肢体はまだ明確な輪郭を取っていなかったが、何だか黒いワンピースのようなものを着ていたような気がした。
「黒だろ? 全身黒づくめのはずだ」と、マスターが言う。
 僕は静かに頷く。マスターはどうして人の夢の中まで見通せるのだろうか、僕は疑問に駆られながらも、とりあえず話を続けることにした。
「僕の視界から、母の姿はまったく消えてしまった。僕は絶望して、とぼとぼと山を下りようとした。ふと振り返ると、そこに一人の少女が蹲っていた。両手で顔を覆い、泣いていたんだ」
 マスターが煙草にゆっくりと火をつける。時折、天井を見上げ、何かを懸命に考えている様子だった。
「その少女が、幼い頃の水月だったんだ」
 と、岡田が言った。
「うん、水月は泣いていた。長い黒髪に隠れて、表情ははっきりとは見えなかったけど、水月は肩を震わせ、泣きじゃくっていた。僕がどうしたのって声をかけると、水月は驚いたように顔を上げた。まだ僕は幼かったにもかかわらず、なんてきれいな女の子だろうと、その時思ったんだ」
「そうだろうなあ。今でも水月ほどきれいな女、見たことないものなあ」
 と、岡田が言う。
「水月の服装までははっきり記憶していないけど、決して裕福な感じはしなかったな。髪もくしゃくしゃだし、服は所々汚れていた。栄養失調を思わせるほど痩せていて、何だかとても青白い肌をしていた。でも、おびえたように僕を見つめた漆黒の瞳は、強い光を宿していた。」
「でも、確かに水月の幼い頃だったんだろ?」と、マスターが聞く。
「うん。薄汚れて、みすぼらしい格好をしていたけど、容姿自体はきりっとして、透明感のある美しさだったよ。今ならあれが水月の幼い頃の姿だとはっきり分かる」
 そうだ、水月、僕はあの時のことを今でもはっきりと覚えているよ。繰り返し繰り返し、見続けた夢だもの。
 涙に濡れたその時の水月の顔、それは幼い僕でも心を締め付けられるほど美しかった。どうしたのって、僕が聞くと、水月は僕の顔を訝しげに見て、お母さんがどこかに行っちゃったのって、小声で言った。
 その言葉を聞いた瞬間、僕は体中に衝撃が走るのを感じた。僕と水月は二人ともお母さんにとってお荷物だったんだ、邪魔な存在だったから、この火の山に棄てに来たのに違いない。僕たちにはもう帰るところなどどこにもないんだと思った時、背後でめらめらと何かが燃え上がる音がした。
 僕のお母さんもどこかに行っちゃったーー
 僕はそれだけ言うと、涙が止まらなくなり、後は言葉にならなかった。これからどうしたらいいのだろう、少なくともあの一瞬は母に棄てられた悲しさよりも、火の山にひとりぼっちで置き去りにされた恐怖の方が僕を捉えていた。
 水月はふっと立ち上がり、
 ほんと?
 と、小首を傾げた。
 ほんとなんだ、僕たちは二人ともお母さんに棄てられたんだ。もう誰も僕たちのことを愛してくれる人なんていないんだ。
 ただ今の僕にとって、幼い水月の存在が何よりも心強かった。
「一緒に捜す?」
 僕がそう聞くと、水月はそっと首を横に振り、「もういいの。だって、私たちが見つけ出すと、お母さん、困ってしまうでしょ?」と、淋しく笑った。
 確かに水月の言う通りだった。
 僕たちがお母さんを捜し当てた時、お母さんはどれほど困った顔をするだろう。
 あの時、僕たちは世界の中でひとりぼっち同士だった。そのことは頭では理解していたけど、僕は一人ではとてもその意味の重さに耐えられそうになかった。
「お母さん、一緒に探そう」
 と僕が言うと、水月が囁いた。
「ほんとにもういいの。だって、私の体、燃やしてしまいたいから」
「えっ?」
 僕は水月の意外な言葉に驚いた。
「でも、全部燃えてしまったら、どうなるのかしら? またひとりぼっちになったら、私、どうしよう」
 僕には、その時の水月の言葉の意味が分からなかった。ただ水月が幼いながらも、自分ではどうにもならないほど傷ついていることだけは理解できた。
「僕がずっと一緒にいるよ、淋しくなんかないよ」
「ほんとうに、どうしよう」
 水月が咄嗟に両手を突っ張って、僕の体を引き離した。
 僕は呆然として水月の顔を見た。水月は僕の顔を確かめるように、少しでも記憶に残すかのように、じっと凝視した。それから、小さく「あっ」と声を上げた。
 その時、誰かがこの世界に火をつけたのだ。
 火は音を立ててめらめらと燃え上がった。

 ガチャン。
 ガラスの割れる音に、僕は思わず背筋が寒くなった。
「変だな」
 マスターがコップを手から落とす音だった。マスターはガラスの破片を拾おうともせず、僕の顔をじっと見つめていた。
「それって、変じゃないか」
「何が?」
 と、僕が言った。
 マスターは鋭い視線で、僕の背後にある何かを見ているようだった。険しい表情を崩さないで、「火の山の夢を見始めたのは、いつからだ?」と聞いた。
「分からない。物心ついた時から、いつの間にか僕に取り憑いていたんだ。おそらく母に棄てられた時からじゃないかな」
「ふむ、だって、洋と水月は大学に入って初めて出合ったんだろ? なのに、なんでお前の子どもの頃の夢に水月が出現するんだ」
「そりゃ、変だよ。確かに変だ」
 と、岡田は相槌を打った。
「たしかにその通りかもしれない。でも、僕の心の中では、それは決して矛盾していないんだ。どうしてか分からないけど、それを素直に受け取ることができるんだ。水月に最初に出会った時はよく分からなかった。でも、彼女に何か強く惹きつけられるものを感じたんだ」
「誰だって、惹きつけられるよ。あれほどの美人、世の中にいないからな」と、岡田が言う。
「そうじゃないんだ。最初から水月に心が惹きつけられて、苦しくて仕方がなかった。だから、彼女をずっと避けてきたんだ、あの電話がかかってくるまでは。」
「幼い頃の水月と、女学生の水月じゃ、随分容貌も変化しているから、気がつかなくても無理もないよな」と、岡田が言う。マスターは顔をしかめ、
「では、こういうことだな。夢の中で出会った少女と、現実の世界の中で、しかもお互いに成長した姿で、再び出会ったんだと」
 と、念を押すように言った。
「いやだなあ、なんだか、マスター、裁判官みたいだよ」
 僕は苦笑いをする。岡田が、
「今日のマスター、なんかいつもと違うよ。顔がおっかない」
 マスターはそれには取り合わず、煙草を深く吸い、大きな煙を吐いた。煙は大きな煙となって、天上に昇り、そして、ふわっと消えた。
「なんだか、怖いんだ。お前の話、火の山について考えていると、ふと俺の脳裏に浮かんだものがある。似ているんだ、それが。でも、もちろんそんな訳はあるはずがないんだが」
 マスターがそう言った。
 彼はまだ僕の背後から視線を外さず、懸命に目に見えないものを探しているように思えた。
「マスター、それはなんだい? なんか、思わせぶりで、いやだなあ」と、岡田が言う。
「たしか、聖書の言葉だったかな。目に見えるものは一時的であり、目に見えないものは永遠に続くってやつ。コリント人への手紙かなんかだ。これって、怖いとは思わないか。さしずめ心の傷は目に見えないものだから、永遠に繰り返されるってわけか」
「目に見えないもの」
 と、僕が呟く。
 水月は目見えないものだろうか。だから、何度も形を変えて、僕の前に出現する。
 幽霊ーーー
 でも、たしかに僕は水月をこの腕に抱きしめ、その肌のぬくもりを確かめたはずだ。
「なんだか、マスターにかかれば、聖書の言葉も深刻な、しかも恐ろしいものに変わっちゃう」
 岡田が溜息をつく。そして、
「で、マスターは火の山から何を連想したんだ?」と、聞いた。
「俺か」
 マスターは、それを口にすることを、ほんの少しためらっているようだった。
「もったいぶらずに、言えよ。マスター、さっきから何かを考えているんだろ?」と、岡田が言う。
「ああ」と言って、マスターはまた口をつぐんだ。
 僕は嫌な予感に襲われ、黙って珈琲を口にした。辺りは静まりかえって、まるで時間が止まったみたいだった。
 僕はマスターの突起した喉仏が動くのを、じっと眺めていた。
「ふと脳裏によぎっただけのことだから、あまり気にしないでくれ」と、マスターが言う。
「思わせぶりだなあ。早く教えてくれよ」と、岡田が聞く。
「火葬場」
 と、マスターがぽつりと口にする。
「火葬場?」
 岡田が怪訝そうに見上げる。
「そう、火葬場なんだ。火の山の話を聞いた時、ふと火葬場を思い浮かべたんだ。火葬場って、人の体を燃やすだろ?」
 僕はその時、言葉を喪失した。
 マスターの顔を見るのが怖くて、黙って下を向いていた。だが、時折細波のように悪寒が僕の体を襲い、僕は吐き気をこらえていた。
 気がつくと、がたがたと震えが止まらず、僕は拳をぎゅっと握りしめて、懸命に自分の体を支えていた。
 今すぐに水月に会いたいと思った。


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