火の山八 第一章 幽霊の世界「少女の部屋に少年の首が転がったこと」
想念を変えれば、世界もまた同時に変わる。
マスターの言葉が僕の脳裏から離れなかった。水月と出会った瞬間から、徐々にではあるが僕の世界は確実に変わりつつある。今僕が属している世界は昨日のそれとは確かに異なっている。そして、僕の脳裏に取り憑いた光景も日々更新されていく。
ある日、再び火の山の夢を見た。冷たい炎に包まれて、懸命に手を差し伸べる少女の悲しみが僕の胸の中に入ってきた。
私の体、汚れているから、燃やすの。
少女は最後にそう言った。
少女は癇癪持ちだった。
白い壁の空虚な部屋に寝転がり、いつものように仮面を被った痩せぎすの少年と、けだるい仕草で戯れていた。
外は雨が降っている。
少女は何をするにも物憂く、少年の縮れた髪や白い指をいじっては、時折かみ殺したあくびを連発した。
少年の体はとても華奢にできていて、些細なことでも壊れそうだった。
少女は肉のあまりついていない肩の付け根のところをいじったり、その肩口の辺りを噛んだりしてみたが、少年は表情一つ変えようとしなかった。
畳みに腹ばいになり、雨がこの部屋に侵入してくるのは、時間の問題だと思った。壁の染みを指で辿ってみる。ひんやりとした感触が指先から伝わり、少女はいつか雪の夜に握りしめた母の手の冷たさを思い出していた。
寂しいの、と少女は少年の体を抱きしめ、耳元でそっと囁く。
少年は瞬き一つせず、畳の上で仰向けになり、じっと青い瞳を天井に向けたままである。
少女は少年の服を脱がせてやり、そっと仮面を外してみた。仮面の下はセルロイドの皮があるだけで、それはぞっとするほど白かった。
僕の網膜にはそうした情景が一枚の絵となって焼き付いていた。僕の映写機はいつでもそこで中断する。僕は懸命に脳裏に巣喰う少女の幻影を再び呼び出してみる。まるでセピア色の映画を見るように。
少女は上半身裸で、下半身は下着だけを着けている。色白のほっそりとした体は、青い血管が少し透き通って見えた。胸はほんの少し膨らんだばかりで、長い黒髪がその胸を隠している。
三畳ほどの狭い部屋は殺風景で、小さな洋服ダンスと幾つかの段ボール箱が積み重ねてあり、あとは数冊の絵本が散らばっているだけである。
部屋の片隅には、狭い空間に似つかわしくない、大きなゴミ箱が置いてある。
そんな空虚な部屋に、少女は一人の少年といた。
少女は少年の体を強く抱きしめた。少年は言葉を喪失し、ただ体を硬くするだけだった。
少年が少しでも逆らったなら、少女はひどく顔を赤くした。本当に熟した柿のようになった。時には、少年の髪を掴んで、泣きながら引きずり回した。少年の顔を叩けば叩くほど、少女は自分の癇癪を抑えることができなくなった。
それなのに、少年が自分の命令に従うと、少女はますます癇癪を起こしたのだ。どんなに従順な振りをしても駄目よ、心の中で何を思っているか分かったものじゃないわ。
少女が少年に対して何よりも気に入らなかったのは、少年が決まって自分に驚くほどの従順さを示したことだった。そんな時、少女は少年の仮面の下にあるセルロイドの冷たさを思い、泣き出したくなるのだった。そんな少女が、寂しげに僕の脳裏に揺らめく。
ふと水月を思う。
水月の横顔はどこか寂しげな表情を浮かべている。僕と談笑している時も、食事をしている時も、彼女の寂しい影が消え去ることはない。
少女が水月の心の中に侵入したのだろうか。それとも水月の想念が少女の幻影を生み出したのだろうか。
そうだ、僕は少女の幻影を追いかけなければならないのだ、そして、水月の謎を解かなければならない。そう思った時、再び少女は悲しみを纏って、僕の脳裏に揺らめいた。
野原には足首まで枯れ草が生い茂っていた。
学校の帰り道、今日も三人の上級生が待ち伏せていた。小学校五年か六年生くらいの少年達で、そろって黄色いランドセルを背負い、半ズボンをはいていた。少年達は少女の前に現れ、両手を大きく広げて道を塞いだ。少女は悲しげな瞳で少年達を見上げ、彼らの後を黙ったまま付いていった。
少年達は一様に押し黙ったままだった。野原の中央まで行くと、三人は少女を取り囲むようにし、そのうちの一人が少女の胸を強く押した。
少女はふわっとお尻から地面に落ちた。踏ん張る様子もなく、両膝をほんの少し開いたまま、地面にぺたんと腰を下ろした。まるでフランス人形のように。
辺りには他に誰もいなかった。夕日が斜めに射し、少年達の横顔を照らし出していた。
「お前のお母さん、体が汚れているんだって」
少年の一人が歪めた顔で言った。後の二人がそれに追従するように、「どうせ、お前の体も汚れているんだろ」と言った。
本当かもしれないと、少女はそっと頷く。体が汚れていることの意味をよく理解はしていなかったが、何となく感覚でそれがいけないことだとは分かる。どうしたらいいのだろう? 本当にどうしたらきれいになれるのだろう?
少女は自分の身体を強く抱きしめる。少年達の声はいつの間にか遠くの方で、くぐもって聞こえてくる。まるでガラス板で遮断されているかのように、何かに遮られて、途切れ途切れに聞こえてくる。
自分の存在そのものが許されない、そんな気がして、少女は唇を強く噛みしめるのだが、少年達は口々に罵倒の言葉を少女に浴びせかけている。少女は耳を塞いで首を横に振るだけで、抵抗一つしようとしない。ただ少年達の声はぼんやりと、ガラスの向こうから聞こえてくるだけだ。
突然、ガラスが割れ、向こう側の声が直接自分に突き刺すように、はっきりと聞こえた。
「嫌!」
少女は思わず叫び声を上げた、その声が逆に少年達を刺激し、何の抵抗も示さない少女に対して、次第に行為がエスカレートしていった。一人が少女のお腹を蹴り上げると、もう一人がそれを踏みつける。
「脱げ」と、一人が震えた声で言う。「脱げ」と残りの二人がオーム返しに言う。少女には少年達の言葉の意味がよく分からない。言葉は何物かに変換されて、呪術のようにしか伝わらない。
「お前の体、どうせ汚れているんだろう」
少女はまるで人形だった。少年達が命じるままに振る舞い、服を一枚一枚脱いでいく。冷たい風に素肌を晒した時、少女は全身に鳥肌が立つのを感じた。体を動かすと、枯れ草が柔らかい皮膚を突き刺し、微かに白い肌に血が滲んだ。
しかし、少女は黙ったままで、何一つ抵抗をしようとはしなかった。
ふと、映写機が留まる。
脳裏に浮かんだ映像が次第に希薄になっていく。僕は映写機を遮断する。そして、首を横に振り、大きな溜息をつく。火の山で燃やされた時、少女は最後に「私の体、燃やしてしまいたいの」と言った。そして、僕の目の前で少女の体に火が付き、そこで僕の夢は途絶えた。
火の山の少女は水月の化身だという。僕の映写機に映し出された少女の映像がそれと重なる。僕はゆっくりと脳裏に浮かんだ映像を映し出す。少女は再び幽霊となって、僕の脳裏に蘇る。
私の体、汚いから燃やすの。
少女は少年達の足音が次第に遠のいていくのを、どこか遠くの方で聞いた。全身の力が抜けて、もう自分の力では体を動かすことができなかった。突然、涙が溢れてくる。後から後から止めどなく溢れてきた。自分の身体のどこにこれだけの涙が溜まっていたのか。
その時、夕陽が最後の一撃を少女の体に加えた。
熱い、と少女は思った。辺りは寒々とした枯れ草の風景なのに、少女は体の内側から火照ったような感じが広がっていくのを感じた。
夕陽がこの世界に火を付けたのだ。何もかもが一斉に燃え上がる。
火の山!
少女は心の中で思わずそう呟いた。
自分の身体は汚れているから、何もかも燃やしてしまうんだ。
だが、その幻影は瞬時に消え去り、少女の体にはざらざらした感触だけが残った。
少女は身を起こし、鳥肌の立った自分の身体を両手で強く抱きしめた。涙に滲んで、視界がぼやけたままである。
青白く、痩せぎすの肢体。
後には剥き出しの現実だけが残り、少女は手探りで衣服を掻き集める。自分の衣服をぎゅっと震える体に押しつけ、少女はその場で動かなくなった。
「ねえ、私のこと、どう思って?」
布団の上に寝そべって、少女は口のきけない少年の体をぎゅっと抱きしめた。
「私がいないと寂しい? 死んでしまいたいほど寂しい?」
少女は甘えた声でそう言った。少年はただ悲しげに少女を見つめるだけで、その唇は固く閉ざされたままである。
少女は少年が口のきけないことが不満で仕方がなかった。
「ねえ、何か言ってよ」
そう言って、少年の顔を睨みつけた。
そっと少年の耳たぶを噛んでみる。最初は冗談のつもりで、次に自分の腕の中で無抵抗な少年が愛おしくて、歯を少し立ててみた。
突然、やり場のない怒りが込み上げてくる。体がむずむずして、自分でもどうしようもなかった。
少女は歯をぎりぎり言わせて、思いっきり耳たぶを噛んだ。耳が引きちぎれるほど、噛み続けた。少年は泣き声一つあげなかった。ただ悲しそうに、訴えかけるように、じっと宙を見つめるだけだった。
少女は自分を赤鬼だと思った。だから、顔を真っ赤にして、少年を何度も何度も叩いた。髪を思いっ切り引っ張り、爪を立てて顔や体を血が出るほど引っ掻いた。
とうとう少女は癇癪を起こしたのだ。
突然、少年の体を放り出し、声を上げて泣き出した。必死で耐えてきたものが堰を切ったかのように、涙が次から次へと溢れ出た。
まるで世界は水浸しだった。
少女はしゃくり上げながら、少年の服をむしり取り、真っ白な裸体にした。机の引き出しから大きな鋏を取り出し、少年の胸に突き刺した。
少年の体は鈍い音を立てた。
少女は胸から腹にかけて、真っ直ぐに鋏を入れようとしたが、鋏はみぞおちのあたりで留まって、どれだけ力を入れても動かない。
少女は更に大きな声を上げた。鋏を引き抜くと、今度は黒髪をズタズタに引きちぎった。そして、眉間の辺りを鋏で突き刺した。
少年はびっくりしたように、目を大きく見開いたままだった。
少女は再び泣き声を上げ、少年の首を切った。背筋に鋏を差し込み、体を切り裂いた。皮一枚残した首を鋏で切り取り、少女は少年の首を抱きしめた。
やがて、ふらりと立ち上がり、積み重ねていた段ボール箱を取り出し、そこに少年の首を放り込んだ。
少女の部屋は、首のない人形で一杯だった。
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