火の山十四 第二章 魔王と魔性の女「近所で少女の生首が転がっていたら」
いつの時代のことだろう。
細長い川がどこまでも続いていた。川幅は十メートルほどで、所々川面から石が顔を出していた。川の流れはゆったりとしていて、岩にぶつかっては二手に分かれていた。
川岸は野原になっていて、そこは赤茶けた土が剥き出しになっていた。そのちょっとした自然の広場は竹の柵に囲まれていて、その外には大勢の貧しい身なりの人たちが固唾を呑んでことの成り行きを見守っていた。
空は抜けるように青かった。
僕はただ黙って見つめていた。
自分の体がどこまでも拡散し、僕はこの世界をどのように把握していいのか、途方に暮れていた。
僕は空であり、風であり、冷たい川の流れだった。
そして、僕は「見る」だけの存在になっていた。僕は肉体を喪失し、実体を持たない一つ一つの透明な細胞となって、ただすべてを見つめていた。
僕の透明なレンズは全景からしだいに川岸へと焦点を合わせ始める。河川敷での様子がクローズアップされていく。
美しい着物を着た女たちと幼い子どもたちが数十人、縦一列に数珠繋ぎになっている。女たちの衣装、髪型から、おそらく戦国時代だろうと思われた。そこから少し距離を置いて、柵の外には大勢の群衆が溢れかえっている。
彼らは農民であろうか、みんな一様に貧しい身なりをして、拳を握りしめ、唇を噛みしめながら、ことの成り行きを見守っている。
辺りには静けさが漂っていた。いや、すべては沈黙よりもさらに深い静寂に襲われていたのだ。
女たちは一人一人前に引きずり出され、川岸に両膝をついたまま、白い首を真っ直ぐに突き出した。一人の侍が玉のような汗をぐっしょりかきながら、長い刀で女の首を切る。
鬼やんまが一匹、すいっと飛んできて、小さな岩の上に止まった。
一人、二人、三人、侍は順番に、まるで薪でも割るように、機械的に女の首を切っていく。
もう止めてくれ。
僕は必死で叫んだが、その声は誰の耳にも届かない。
ふと見ると、処刑場の一角に木で組み立てられた簡単な棚があり、その上にはおそらく武士であろう、腐敗した生首が目を大きく見開いている。生首は処刑場を俯瞰できる位置に設置されているのだ。数人の役人らしき武士が、女子どもの集団に槍を突き立て、一列に整列させようとしている。鶏の首を機械で順番に切断していくように、首切り役人は無言のまま女達の首を切っていく。それを群衆達が柵越しに見物しているのだが、彼らが口々に何を叫んでいるのかは分からない。不思議と音のない世界である。
一人の女が首を切られる前に、髪を振り乱して、何かを叫んでいるようだが、まるで無声映画を見ているみたいだ。美しい小娘が一人、母親らしき女の腰に縋り付いたが、その母親の首も瞬時のうちに切断された。次はその小娘の番だ。
体の大きな一人の侍が、切り取った女の首を一つ一つ丁寧に洗っている。大きな体を窮屈そうに屈めて、一心に女の首を洗っている。
川が血で真っ赤に染まる。
いったい何人の首が切られるのだろう。
ふと気がつくと、僕は例の交差点にいた。
その片隅で、埃を被った一体の首切り地蔵が、目を真っ赤に泣き腫らしている。
シグナルが赤く点滅し、僕は交差点のど真ん中にしゃがみ込み、一人泣き続けている。交通量の多い夕暮れ時、車はクラクションを鳴らしながら、僕のそばを通り過ぎる。
何がこんなに悲しいのか、自分でも分からない。それでも体のどこからか、涙が溢れ出てくる。歯を食いしばっても、その隙間から嗚咽の声が漏れてくる。
やがて、夜が重たい闇を垂れ込めたが、それでも僕は泣き止むことができないでいる。涙で顔がくしゃくしゃになりながら、ふと道路の下を覗き込んでみる。道路の底が透けていて、その真下に河川敷の風景がぼんやりと見える。
そこでは、まだ役人達が女の首を切っている。彼らはすっかり疲れ果て、刀は刃がこぼれ、肩で息をするようになっていた。役人の一人はそれでも懸命に首を切ろうとしているのだが、もうそれ以上力が入らないのか、一人の女の首に刃が埋まってしまい、切ることも抜くこともできないでいる。女は髪を振り乱して、何かを泣き叫んでいる。
その時、僕は空であり、風であり、空気なのだ。僕の悲しみは、彼らの元には届かない。
世界はすべて解釈に過ぎない。
喫茶店のマスターの声が聞こえる。
そう言えば、マスターはいったいどこに消えたのだろう。マスターと会えなくなってから、随分と時間が経った。
僕は交差点のど真ん中で、天を見上げて泣いた。
その片隅で、首切り地蔵が、大きな血の涙をこぼした。
僕はその場で大の字になり、大声を上げて、泣き続けていた。
それは決して夢ではなく、現実に起こったことなのだ。
僕はその日の朝、何気なくテレビのスイッチを付けた。何かのワイドショーだったが、突然画面が切り替わり、臨時ニュースが飛びこんできたのである。
猟奇事件だった。
僕は思わず飛び起き、画面に釘付けとなった。
殺人事件だったが、その現場がこのすぐ近くだったのだ。
明け方近く、駅から遠く離れた路地で、少女の生首が転がっていた。犯人の手がかりはまだ掴めていないらしい。
テレビの画面には、大勢の人だかりが映っていた。普段見慣れた光景が、まるで見知らぬ謎の空間にすっかり変貌していた。首以外の、少女の肉体の他の部分は、まだ見つかっていないらしい。少女の身元は確認できず、もちろん犯人の手がかりも掴めていない。
犯行現場は僕がよく通る路地であったし、しかも、マスターが経営する喫茶店のすぐ近くである。
僕は大きな溜息をつき、テレビを消した。
ベッドの上に仰向けになって寝転がり、そのまま天井を見上げた。そう言えば、マスターは今ごろどうしているのだろう。
明け方見た夢のせいだろうか。
まだ僕の脳裏には、真っ赤に目を泣き腫らした首切り地蔵のイメージがこびりついていた。
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