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火の山一 第一章 幽霊の世界「幽霊から突然電話がかかってきたこと」

 
   わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
   見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからである。
                   (コリント人への第二の手紙)

◎幽霊からの突然の電話
 恋愛はいつだって不思議なものだ。
 突然、幽霊から電話がかかるーー
 
 そうやって僕たちの恋愛は始まった。


「洋(よう)、大丈夫?」
「えっ? 誰? よく聞こえないんだ」
「洋、生きているの?」
 その声は遠くなったり近くなったり、断続的に響く雑音のようでいて、その中にははっきりと女性の息づかいが含まれていた。
 僕は機械音から懸命に生きた音を探り当てようとするのだが、それは突然ぷつりと切れてしまい、あとにはツーツーと嫌な音だけが耳に残った。

 重たい頭をゆっくりと横に振った。まだその奥底の方がじーんと痺れるようで、慌てて布団に潜り込んだ。
 今は、何時頃だろう?
 どんよりと重たい時間の中で再び目を閉じたが、僕の意識はしだいに研ぎ澄まされていく。目覚ましを取ろうと、手を伸ばしてみる。午前九時、カーテンの隙間からかすかに朝の光が漏れている。
 頭の中の淀みが澄んでくるにしたがい、電話の声だけが妙に生々しく蘇ってくる。

 洋、大丈夫?

 顔も名前も分からない。だけど、声は不思議なもので、その女性らしき声が僕の脳裏に不思議な映像を作り出す。脳裏に現像されたのは若いほっそりとした女性だが、顔はのっぺらぼうである。
 誰だか分からない女性から突然電話で、「生きているの?」と言われたなら、脳裏に様々な妄想が沸き上がり、誰だって穏やかな気持ちではいられなくなる。
 一体、誰だろう? 
 しかも、何んて訳の分からない電話だろう。僕は昨日も今日も、こうしてうんざりするほど退屈な日常を、それでも何とか無事に生きている。

 再び携帯電話の音が、空気を引き裂いた。
「私よ、私、分かる?」
 その声が歌うような調子で聞こえてきた。今度ははっきりと、しかも、意外と近くに聞こえる。
「えっ、誰?」
 カーテンの隙間から、微かな光が滲んで入る。僕は薄闇の中で、懸命に声の主を捜し当てようとする。
「私よ、水月(みづき)。分からないの?」
「水月?」
 しばらくの間、水月という言葉が何の実体のないもののように宙を彷徨っていた。それが単なる抽象的な記号から、しだいに肉感のこもったイメージを伴って来た時、心臓がことりと動いた。
 水月ーーまさか、あの水月ーー
 気が付いたら、思いも寄らない言葉が勝手に自分の唇からこぼれていた。
「幽霊!」
 僕は自分の言葉に驚いた。
「えっ? 幽霊って、何のこと?」 
 水月の声が僕の心臓を突き刺した。その声は僕を問い詰めるというよりも、どこか暖かみを含んで、神経を弛緩させる調子を持っているように思えた。

 水月は大学の同じゼミに属していたが、クラスメートたちの間で密かにつけられたニックネームが「幽霊」だった。もちろん、本人が知るよしもない。
 水月は透き通るような美しさだった。誰もが彼女に惹きつけられたのだが、いっこうにその正体がつかめない。大学の講義が始まる寸前に姿を現し、終了と同時にどこかへ消えていく。
 水月がどこに住んでいて、どんな暮らしをしているのか、誰も想像がつかないし、彼女とじっくり会話を交わした者は一人もいない。
 まさにどこからか現れ、どこかに消えていくのだ。
 そして、水月を何よりも神秘的に見せているのは、その存在の希薄さだった。理由を問われても説明しようがない。彼女の体のどの部分をとっても確かに現実のものなのに、それらを組み合わせて総体として掴む時、やはり彼女のどこをとっても透明なのだ。
 水月はまさに幽霊だった。
 そんな水月から突然の電話である。
 僕はすっかり混乱してしまった。
「ごめん、なんか電話の音が遠いんだ」
 僕は慌ててベッドから上体を起こし、壁にもたれかかった。四畳半の部屋には昨日読んだテキストが散乱していた。

 大学の最寄り駅から三つ目の駅を降り、そこから五分ほど細い坂道を上っていくと、僕の住むぼろアパートがある。
 その坂の先に女子校があるので、登校時間になると、決まって女子高生たちの笑い声が沸き起こっては、消える。二階の窓越しに浸入してくるので、その声はぼんやりとくぐもってはいるが、目覚まし時計としては最適だ。リンリンとけたたましく人の神経を刺激することもない。今は登校時間もとっくに過ぎたのか、物音一つしない。
 四畳半ほどの狭い和室、簡易ベッドと机を置いたら、他にはほとんどスペースがない。壁には小さなカラーボックスが積み重ねてあり、文庫本がぎっしりと詰め込まれている。
 なるほど、夜中には人通りがほとんどなく、幽霊が出没してもおかしくない環境だが、今はまだ朝だ。
 壁の染みをぼんやりと見詰めながら、意識は電話の声に集中する。
「大変なことが起こったの」
 と、水月の声がする。
「えっ、大変なこと!」
 僕は掠れた声で聞く。僕は頭の中で懸命に事態を把握しようとする。第一、僕は水月と二人きりで会話をしたことなど一度もないのだ。そのような希薄な関係にある彼女が朝から電話で告げた大変なことーー
 僕にはそれが一体何なのか、予想も付かない。世界が崩壊するような、衝撃的な出来事なのか、それとも彼女の身辺で起こったささやかな出来事なのか。
 しかも、その大変なことと、「洋(よう)、生きてるの?」という水月が発した言葉との関係をいくら考えても呑み込めない。
 再び、水月の声が聞こえる。
「そうよ、大変なことが起こって。だから、岡田君に頼み込んであなたの携帯番号を教えてもらったのよ」
 大変なことーー
 僕の脳裏で、言葉だけが妙な重量感を持って、神経を刺激する。その言葉が水月の唇から漏れたことに、僕は戸惑った。
「大変なことって?」
 水月は僕の動揺などにかまわずに、たたみ掛けるように言う。
「あなたの夢を見たのよ」
「夢?」
 僕は思わず聞き返し、さらに「どうして僕の夢なんか見たの?」と聞いた。素朴な疑問だったけど、相手の立場から考えると、実に間の抜けた質問だったに違いない。水月はむっとした口調で、
「夢を見たら、いけないの? 私だって、見ようと思ったわけではないわ。あなたが勝手に私の夢の中に侵入してきたのよ」と言った。
 僕は返答に詰まってしまって、気が付くと背中にぐっしょりと汗をかいていた。誤るのも変だが、だからと言って、反論する手立てもない。
「どんな夢?」
 思わずうわずった調子で聞く。
「あなたが死ぬ夢よ。あなたが燃やされて、いなくなっちゃうの」
「えっ?」
「だから、会えないの? 今すぐによ。今すぐ、あなたに会いたいの」
 また携帯電話の声が遠のいていく。
 水月の体もどこか遠くに行くようで、僕は必死で携帯を握りしめる。

 水月はずっと前から、僕の胸の奥に住み着いた幽霊だった。教室で彼女の姿を眺めては溜息をつき、その声を微かに耳にしては胸をときめかせていた。
 ずっとそうだった。
 その姿が、その声が、現実のものとして、突然肉感を持って現出するとは、それこそ夢にも思わなかった。しかし、今、携帯電話を通し彼女の声に実際触れた時、僕は何の実感も持てなくて、困り果てている。
「分かった、すぐに行くよ。で、どこに行ったらいいの?」
 声って、なんて不思議なのだろう。
 その音を発生させている人が確かに存在しているはずなのに、僕には携帯の声が宙に彷徨っているとしか思えない。
 彼女の微かな息づかいも、少しの間の静寂も、水月の現実の肉体を意味しない。今、どこにいて、どのように電話をかけているのか、声はそういった現実性を超越して、僕に新たな幻想を植え付ける。
「そうね、大学の正門前にある喫茶店は、どう? 今から着替えたら、三十分後には着くでしょ?」
 僕の鼓膜には水月の声がオルゴールのように柔らかく聞こえていた。返事をしたのかどうかも、記憶にない。
 オルゴールのふたが閉じられ、気が付くとツーツーと機械音だけが耳に残されていた。
 あたりに静寂が戻ってきた。

 僕は幽霊に取り憑かれた、孤独な学生だった。
 その幽霊から、突然の電話だ。

 水月の夢に僕が侵入する。僕の意志とは無関係に、水月の世界の中に僕が登場する。そして、僕が燃やされるーー
 どんな夢だったのだろう?
 その時、水月は哀しんだのだろうか?
 僕が死んだ時、水月はどんな表情をしたのだろう?
 その瞬間に、水月は夢から覚めたのか?
 それとも、僕がこの世から消滅してもなお、夢は何事もなく続いたのだろうか?
 夢?
 本当に夢だろうか?

 僕が初めて大学で水月と出会った時、時間が静止して、周囲の空気が急に凝縮したように思えた。
 僕は思わず彼女の姿に目が釘付けになった。それは単に水月が誰もが目を引く美貌を持っていたというだけではない。彼女には僕を何か不安にさせるものがあったのだ。
 それ故、僕は彼女に強く惹かれながらも、積極的に関わることを避けていた。彼女の周囲から離れることを恐れながらも、いつも遠くから眺めていた。
 それなのに、こんな形で、いきなり水月は僕の世界に飛び込んできた。

 人の夢に勝手に侵入したのは、 
 僕ではなく、
 水月、
 君の方ではないか。


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