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大人の「現代文」134………『檸檬』25結局こういう話2

「みすぼらしい美」への逃避行


 続きを見て見ます。
 で、この「錯覚」という想像上の逃避行は「現在」から自分の幼少期という「過去」に向かいます。

 たとえば、安い花火の記憶……でもその記憶の中心は暗闇を一瞬輝かせるあの「火の花」ではなく、火をつける前に目前にあった、安っぽい花火の束のカラフルな色彩、絵柄です。あるいは「おはじき」や「南京玉」といったガラスの玩具そのものではなく、それを「舐めた」ときの「かすかに涼しい味」などです。まあ花火の束の色彩や絵柄はうなずけるとしても、「ガラスや南京玉を舐めた際の涼しげな味」には、凡人の私にはさすがについて行けませんが。

 でも、多分一番重要なことは、彼の独自な美の感性ではなく、彼にとって想像の美への埋没は、恐らく自分自身の発見であり存在証明の旅ではないかということです。「みすぼらしい美」の探検は、単なる逃避行ではなく、ある種の「自己発見」の旅ということです。ということは……丸善という「西洋の美」に疎外された主人公が向かう「みすぼらしい美」の行き着く先は、自分の心の底にある、ありのままのオリジナルなもの、すなわち「日本の美」を探索する旅にもなりえるということです。「個性」の底に「普遍」が見え(隠れ?)してくるということです。

 で、次に描写されるのが「果物屋」の黒い漆に映える「果物の色彩」であり、「夜の美」であり、その棚で異彩を放つレモンでありました。ここで、想像という個人的な「錯覚」の世界は、まあ誰しも共有できる「現実」世界に「近づいて」きたと思われませんか?
 で、「檸檬」というゴールに行き着くのですが、次回にしましょう。


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