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大人の「現代文」42……『舞姫』ちょっと休憩

なぜノートを始めたか

 
 ちょっと『舞姫』から離れて、この私の日々の発表について書きますね。
実は、前回の記事で、貴重な御指摘をいただきました。趣旨は、「あらすじ」とか「訳」というには私の説明は「脚色がすぎる」という御指摘でした。具体的には、前回のエリスの二回目の手紙に関してでしたが、本文のエリスの理路整然とした説得論理(背後には鷗外がいるから当然ですが)を、単なる「お願い」にしてしまっているのはいかがなものかという御指摘です。

 的確なご指摘で、記事の訳は少し修正させていただきましたが、同時に、私は個人の趣味に走っていた(る)のでは全くないのですが、ちょっと焦っていたかなという自分自身への思いも、味わったわけです。そのことについて一言書いてみます。

 私はこの四月に、このノートというプラットフォームの存在を知って、「よしこれだ」と思い、記事を書き始めました。その動機は、ある危機感があるからです。危機感とは、たとえば、『舞姫』とか『こころ』といった超重要な教材が、高校の現代文教育から、今まさに、消えつつあるということです。消えつつ、というのはやや語弊がありますが、現今の指導要領では二年生から従来おなじみの「現代文」という科目は消滅し、「論理国語」と「文学国語」という二本立てになっているのです。今の高三生はその第一期生ですが、彼らは「現代文」という科目は「知らない」のです。

 知らないのは、科目名だけではありません。『舞姫』や『こころ』もです。というのも、大学受験を意識する高校では、「論理国語」と「文学国語」という二つの科目が併存してどっちか取らねばならないとするなら「論理国語」を選択するのが普通だからです。そうすると漱石・鷗外の超重要な教材を含む「文学国語」は「消失」はしていませんが、事実上・実質上の「蚊帳の外」状態になるのです。

 今後、『舞姫』を知らない高校生は急増するでしょう。この重要な文化遺産は「知られない」存在になり始めているんです。こういう事態に対する危機感が私の根底にあるのです。私は、これがどれほど「危うい」ことなのかを発信しようと思ったわけです。

 というのも、高校生にとって、最も栄養になるものが、この作品にはあるからです。その「思い」があまりて、「脚色」に至ったことに改めて気づいたわけです。

 これ、次回もう少し説明します。

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