大人の「現代文」131……『檸檬』22「不吉な塊」の「気詰まり」とは
分裂する心
冒頭の「えたいの知れない不吉な塊」が明かされます。それは、主人公が最後の最後に辿りついた感情ー丸善が「美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう」、そうしたら「あの気詰まりな丸善も木端微塵だろう」と呟く、その「気詰まりな丸善」という表現に終着しているのです。
ですが、丸善は本来「気詰まり」なものではありません。それどころか、主人公に「みすぼらしくない」豪華な美を提供してくれる美の宝庫だったわけです。あこがれの場所なんです。
にもかかわらず、「生活が蝕まれた」いまの私には「借金取りの亡霊」のように、私を拒絶するのです。こんなに私は愛しているのに、丸善は私を受け入れてくれないのです。これが覆しようのない現実なのです。
でも、いうまでもなく、「気詰まり」は丸善の責任ではありません。丸善は、西洋の文物をただ紹介している、仲買人にすぎません。だからこの感覚主人公の心の中の一人芝居なのです。お金がないなら行かなきゃいいだけの話ではありませんか。
でも、かれは、行かざるをえないのです。どれだけはねつけられても、彼はほとんど引き寄せられるようにそこに向かうのです。なぜか。それは丸善の向こう側に、彼を魅了して止まぬもの、「えたいの知れない」世界が広がっているからです。それって「西洋」ではないですか?
丸善の魅力は不滅です。だから正確に言うと、彼は、その爆発を本心から望んではいない。望むべくもない。彼は、彼を拒否する「丸善」の「気詰まりな部分」だけを「爆発」させたいのです。そしてこの二律背反(気詰まりにさせるけど、ホントは魅力そのもの)は、主人公自身がよく知っているのです。だから、この爆発の思いつきは本気なものではありません。所詮、二度繰り返される
「変にくすぐったい気持ち」
にさせる妄想なんです。「微笑ましい」程度の「カタルシス」、一時的なほんの思いつき、お慰みなのであって、それ以上のものではありません。ですから、この爆発夢想で彼の「えたいの知れない不吉な塊」は、解決することはありません。
そして私は活動写真が奇体な趣で街を彩っている京極を下がっていっ
た。
その瞬時の「気詰まりからの解放」のあと、彼はまた新たな「檸檬」を求める浮浪のループをはじめるのです。