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大人の「現代文」64……『こころ』Kについて2

なぜ彼女はKがわかるといったのか。


  前回の続きです。

 で、なぜ私が一人の女子高生のKに対する発言にある衝撃を受けたかと言いますと、その子のキャラが、Kと被ったからです。その子は、とても礼儀を弁えた「よい子」なのですが、同時に、自分の意見は臆することなく言葉に出すという強さも併せ持っていたのです。そしてこの「強さ」はしばしば周囲から「浮く」ことにつながりました。彼女が(先生よりも)Kに(キャラとして)特別親しみを感じる理由はよく理解できたわけです。

 先生はKを根本的に批評しますが、そのK批評は、「純粋」と「周囲と合わない」の二点に集約されると思いませんか?ざっくり言えば、先生はKの思想には「自分よりずっと純粋ですごい」と感じつつ、Kが社会的に「浮く」点には「社会人としてKのありかたは如何なものか」とある優位を感じているわけです。

 その女子高生の発言で、Kが、現代の高校生にとって、今でも生きた存在であることに気づかされたわけですが、これは漱石の文学作品が、現代のピュアーな若者にどう受け止められるかを間近に確認できる高校教師の「特権」のようなものなのです。

 これは私の仮説ですが、私は、Kは先生にとって「無私の精神の象徴」のような存在だったのではないかと思っています。そういう独特の個性を持つ人間であったが故に、先生とKは、たとえば『舞姫』の豊太郞と相沢との関係のようなシンプル関係にとどまらず、より複雑な心理劇が先生の「こころ」の中に生じざるをえなかったわけです。次回より章を追ってその読解に入りたいと思います。

 


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