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大人の「現代文」18……『舞姫』あらすじ3 「僕」って何?


あらすじ3

前回の続きです。長いので、編集し直しました。
 
 簡単に言えば、豊太郞の「自我の目覚め」は明治という時代の「時代感覚」でもあったということです。なぜなら、この問いは、実に豊太郞のみならず、当時の鋭い知識人がおそらく共有した自問であったからです。ついこの間までは、「個」などというものは全く生活感覚にない生活をしてきたのが日本人です。武士に生まれたら「武士道」がセットされ、農民に生まれたら「農民人生」がセットされていました。そこには「その集団の掟」に従う人生しかなかったと思います。(実はこれ小さなスケールでは今でもあると思います。)もちろんその集団のなかでの「小さな個」はあったでしょう。でもそれは所詮、集団の論理の中での「個」でしかなかったと思います。

 そういう集団のくびきから解放されて、武士でもない、農民でもない、商人でもない、何にも所属しない「裸の自分とはなにか」という、日本史上、誰も(多分?)考えたことのない(哲学的)問題こそ、当時の知識人が直面した「問題」でした。で、豊太郞はドイツに行って、そのことを意識したわけですが、それはもっとも自然な「自我の目覚め」を経験したということになるでしょう。
 
 古い考えに囚われないというのは、一見良いことのように思われます。新しい時代になって、新しい考えがもたらされ、誰もがその新しい時代の感覚に酔えるといったような、楽観的な捉え方がありますが、現実はそんな簡単なものではありません。豊太郞の「自我の目覚め」もまたそんな簡単なものではありませんでした。彼の「ホントの自分」の追求がどんな結実を迎えるか、そもそも「ホントの自分の追究」とはどいうことなのか、これがこの小説の読みどころになるのです。

 

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