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大人の「現代文」86……『こころ』単なるエゴイズムの問題ではありません
親友に対してしてはいけないこと
先回の復習です。Kに「公平な批評」を求められた先生が、「君は恋などにかまけず、いままでどおり道の思想を追求すべきだ」というアドバイスをしたのは、Kのための「公平な批評」などではなく、ただただKにお嬢さんをとられたくないという一念からであり、先生自ら認める、
要するに、私の言葉は単なる利己心の発現でした。(下 四十一)
だったわけですが、この利己心という言葉が単純に一人歩きして、『こころ』には近代人のエゴイズムが絶望に至る過程が描かれている、などと言われるので、生徒は???になるのです。
何度も言いますが、先生が悔いている「卑怯」さは、お嬢さんを得るためのエゴイズムの行為を指すのではなく、絶対に信頼する親友を、表向き親友のフリをして、二枚舌で裏切った行為に対してなのです。よく高校生用の参考書の説明にあるような「近代のエゴイズム」が先生を責めているのではなく、親友を装って非親友の態度を取った不誠実な自らの行為が先生を苦しめているのです。
本文に戻って確認してみましょう。先生に「公平な批評」をされてKのリアクションに対して先生がどう受け止めたか見てみます。
「ばかだ」とやがてKは答えました。「僕はばかだ」Kはぴたりと
そこへ立ち止まったまま動きません。彼は地面の上を見つめていま
す。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強
盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかに
も力に乏しいということに気がつきました。私は彼の目づかいを参
考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そ
うしてそろそろとまた歩き出しました。
私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口から出る次の言葉を腹の
中で暗に待ち受けました。あるいは待ち伏せと言った方がまだ適当
かも知れません。そのときの私はたといKをだまし打ちにしてもか
まわないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心
はありますから、もし誰か私のそばへ来て、おまえは卑怯だと一言
ささやいてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっと我に
立ち返ったかもしれません。もしKがその人であったなら、私はお
そらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私をたしなめるにはあ
まりに正直でした。あまりに単純でした。あまりに人格が善良だっ
たのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払うことを忘れて、か
えってそこにつけ込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうと
したのです。(第一学習社 現代文 より)
先生は心の中で自分の「良心」を半ば意識していますよね?しちゃいけないことをしてヒヤヒヤしながら、親友を振る舞っているのです。この「赤面」こそ卑怯の正体と思われませんか?