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大人の「現代文」38……『舞姫』   My解その2 故郷「日本」とは?

エリスにないもの


 もちろん豊太郞は、妻エリスを愛していたのです。この事実に変わりはありません。だから、豊太郞が、相沢の意見に従い、エリスを捨てた、というのは、エリスへの愛が薄かったと考えるのは正確ではありません。エリスへの愛以上に、自分を深く拘束する、この内奥の「倫理感覚」に屈したのだと思います。相沢との間に、そして天方伯との間に、暗黙の内に共有していた、この「倫理感覚」こそ豊太郞を本質的に支配するものだったのです。

 最終的に豊太郞は、天方大臣に帰国の打診を受けて「はい、帰国します」と決定的にエリスを裏切る発言を「即答」するのですが、その二三日前、ロシアで大活躍してベルリンに帰宅した際、身重のエリスが危険をかえりみず喜びのあまり階段を駆け下り、豊太郞に抱きつくシーンがあります。

 「お帰りなさい!よく帰ってきてくれました。豊様が帰ってこなかったら、私死んじゃったかもしれない」

 自分の運命を予覚していたエリスの悲痛な、叫びです。この自分に全てを委ねている純な言葉を聞いたとき、豊太郞はエリスの一途な行動に「故郷を思ふ念と栄達を求める心」が一瞬ふっとんだ、と正直に書いてあります。

 「故郷を思ふ念と栄達を求むる心とは時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那、低徊踟蹰の思ひ(迷い)は去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我が肩に寄りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ」

 でも、ということは、この時以外は、エリスへの愛以上に「故郷を思ふ念と栄達を求むる心」が彼のこころを覆っていたということです。

 皆さん、この「栄達の念」に注目されますが、先にも強調したように、それだけなら、豊太郞は単なる自己利益を優先させた「つまらない人」になりさがってしまいます。彼の苦悩を普遍化するのは、この「故郷を思ふ念」の方なんです。これは、漠然とした「望郷の念」なんかではありません。ここにこそ、最終的に豊太郞に帰国を承諾させた真の理由が潜んでいるのです。「相沢の意見に従った」「天方大臣の意向に従った」というのはあくまで表向きのことです。相沢個人が問題なのではなく相沢という人間との間に豊太郞が共有するある種の絆感覚は、豊太郞にとっては、個人を超えた普遍性を持ったものなのです。(だから同じ論理が天方大臣にも使われるんでしょう)それが、「故郷」の意味するものなのです。豊太郞と相沢・天方大臣の関係を成り立たせているのは、この「故郷」日本に潜む、独特な、人間と人間とのあるべき関係、「倫理感覚」であり、これこそ「故郷」の正体だからです。

 


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