大人の「現代文」133……『檸檬』24 結局こういう話です
わかりづらい小説なのでもう一度全体を振り返ります
まず(それが当時の知識人の常識だったと思いますが)日々、圧倒的な西洋の美に耽っていた主人公が、やはり、その日々の「習慣」と切っても切れない「恒例行事」の「えたいの知れない不吉な塊」との魂の対決をするという話です。
で、結論の全体をざっくり言えば、西洋美に見放されゼロ状態に陥った主人公が(でも絶対に負けられないので)自分の心中を省みて美の点検を開始します。「みすぼらしい美」と銘打って、まずはほとんど「醜」なるものとすらも仲良くなって、一つ一つ「美の探索」を続ける中で、とうとう一果実、レモンならぬ「檸檬」の美に辿りつき、そこで悲しくも可笑しい、児戯のよう(でかつ笑えない)究極イマジネーションに浸って、「瞬間の解決」を図ったという、正に花火のような小説だということです。
なかなかわかりづらい小説なので、もう一度全体をふりかえってみましょう。
1段落で、この小説の葛藤テーマ「えたいの知れない不吉な塊」が宣言されたあと、2段落で「みすぼらしい美」の探求が宣言されるのですが、主人公はホントに「醜なる」裏通りから、自分の美的感性の再点検を開始するのです。「裏通り」路地裏です。裏通りがなぜいいのか、「汚い洗濯物」「ガラクタ」があるからです。なんじゃこりゃです。この段落では、なんで「実は醜なるモノ」がみすぼらしい「美」と価値逆転するのか、わかりづらいのですが、ヒントはここです。それらは表通りのように「よそよそしく」ないからです。「親しみ」があるからです。こんなふうに、実は「醜なもの」にすら「美」を求めざるを得ない心情、ホント主人公は傷つき「追い詰められて」いるんですよね。切ないです。
で、さすがに、そんな特殊描写ばかりでは、読者はついて行けないのですが、だんだんと、読者が共感できる心情にリードされます。それは「錯覚」というイマジネーションのなかへの逃避です。それが3段落です。
主人公は眼前の「汚い洗濯物」から、心中に飛びます。今歩いている場所が都ではない地方の穏やかな都市、たとえば(空気のきれいな)金沢や長崎で、しかも落ち着いた旅館、安静な一月、清潔な布団になるのです。これがまた結核という不治の病に囚われている彼の身体の叫びがそのまま表されて切ないですよね。いくら冒頭で「肺尖カタル」がいけないのではない。「いけない」のはこの「不吉な塊」だと叫んでも、ここで隠せず言っているじゃないですか。「いけない」のは「肺尖カタル」だって……。
続きます