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大人の「現代文」125……『檸檬』16「みすぼらしい美」の終着点

すべての善いもの美しいものー檸檬


 さて、ここからこの小説の心理劇のすごいドラマが始まります。レモンで思わぬ力を得た主人公こういう心境になります。

   私はもう往来を軽やかな興奮に弾んで、一種誇りかな気持ちさえ感じ
   ながら、美的装束をして街を闊歩した詩人のことなど思い浮かべては
   歩いていた。汚れた手拭いの上へ載せてみたりマントの上へあてがっ
   ってみたりして色の反映を量ったり、またこんなことを思ったり、
    ーつまりはこの重さなんだな-
   その重さこそ常々私が尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さ
   はすべての善いものすべての美しいものを重量に換算してきた重さ
   あるとか、思い上がった諧謔がそんなばかげたことを考えてみたりー
   何がさて私は幸福だったのだ。

 ほとんど有頂天ですね。しかし、ここで謎の感想が連発します。レモンの「重さ」は「すべての善いものすべての美しいものの重さ」だというのです。ーと言ったかと思うと、それはばかげた「思い上がった諧謔」だとも言うのです。何だこりゃ。

 むろん「ばかげた諧謔」は自嘲であって「ばかげてない諧謔」だから書いたのでしょう。その謎解きに挑戦してみましょう。で、そのためには、主人公の次の行動に注目しなければなりません。

   どこをどう歩いたのだろう。私が最後に立ったのは丸善の前だった。
   平常あんなに避けていた丸善がそのときの私にはやすやすと入れるよ
   うに思えた。

 常識的に考えるなら、この行動は謎ではありませんよね。すでに見たように、主人公の「みすぼらしい美」への逃避行は、そもそも丸善からのつまはじきから始まっていたからです。丸善は彼にとって「美の殿堂」であったのです。その殿堂が「借金取りの亡霊」のように思われて、つまり、その美に浸れずに彼は、自分を絶対脅すことのない「みすぼらしい美」に安らぎを求めたわけですからね。

 で、その逃避行の果てに、思いもかけず「檸檬」に辿りついたのです。彼が再発見したレモンは「すべての善いもの美しいもの」の重量を湛えるのだからもはや単なる「レモン」ではなくて、精神の重量をも含みこんだ「檸檬」になるのでしょう。で、その頼もしい味方となった「檸檬」で「丸善」に対抗できるのか。できたのでしょうか、できなかったのでしょうか?

次回にしましょう。

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