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大人の「現代文」126……『檸檬』17クライマックス
丸善との対決
いよいよクライマックスに近づいてきました。この小説、わかりづらい構造なので、いままでの経緯を簡単にまとめますね。それを確認して前回の続きにつなげます。
まず、そもそも論として、この小説、主人公の独白だけで成り立つ「心理劇」なんです(いわゆる私小説ですが、百パーの私小説です)。高校の教師をしている私から見ると、一読した生徒の、まず極端に表情の異なる二人の高校生の顔が浮かびます。目を輝かせる文学少女のAさん(架空ですよ!)と、ふん、といった面持ちの数学大好き人間のB君です。なぜB君が「ふん!」となるかは聞かなくてもわかります。彼にとってこの小説は「まるで理解できない妄想」でしかないからです。
この、小説から一番遠いB君でも「おーなるほど」と思わせなければ授業は成功しません。そのためには、主人公の「妄想」が「妄想にとどまらない」ある普遍的な「真実」をはらんだものにならねばならないのです。その普遍を語るのが我々現代文教師の「責務」なのです。
では、何を語れば「普遍」がえられるのか?……ここから本文の復習ですが、冒頭の「えたいのしれない塊」の正体を、B君でも理解可能なように「論理」で理解することなのです。その解説がいままでの私の「檸檬論」なわけですが、簡単に「抄」述すれば、ほとんど極貧の学生である主人公が、彼にとっての美の殿堂である「丸善」から、極貧であるが故にはじき出されて、そんな極貧の彼でも癒やしてくれる「(人にとっては)みすぼらしくても、自分には美」なるものを探索して流浪するという物語なのです。この、「人にとってはみすぼらしくても、自分とっては美」というコンセプトがまずこの小説(独白)の素晴らしいところで、「美は個人のもの」「美は発見するもの」という人間の「普遍」が一つリアルに味わえるわけです。こう言えば、「数学こそ美」というB君にも共通項ができるのです。これがまず一つ。
次に、もっと主人公の「美的発見」に「寄り添う」と、彼が「レモン」の発見にいきついたということです。多分に彼の現在の「結核という身体的な苦境」がそうさせるわけですが、彼はみずみずしいレモンのささやかな魅力に驚喜、狂喜します。軽い一顆のレモンが「すべての善いもの、美しいもの」の象徴と昇華され「檸檬」と意識されて、彼は、何より美を求める人ですから、再び自信を取り戻し、自分を追放した丸善にむかったのです。言うまでもなく、丸善の美を再び味わうためです。ここまでが前回です。
で、その結果どうだったか。今回は長いですが、引用しますよ。
しかしどうしたことだろう。私の心を満たしていた幸福な感情はだん
だん逃げて行った。香水の瓶にも煙管にも私の心はのしかかってはゆ
かなかった。憂鬱が立てこめてくる、私は歩き回った疲労が出てきた
のだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取
り出すのさえ常に増して力が要るな!と思った。しかし私は一冊ずつ
抜き出しては見る、そして開けては見るのだが、克明にはぐってゆく
気持ちにはさらに湧いてこない。しかも呪われたことにはまた次の一
冊を引き出してくる。それも同じことだ。それでいて一度はバラバラ
とやってみなくては気が済まないのだ。それ以上はたまらなくなって
そこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度
もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から好きだったアン
グルの橙色の重い本までなおいっそうの堪え難さのために置いてしま
った。ーなんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。
私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群れを
眺めていた。
とりあえずは、完全敗北ですね。やはり丸善は主人公を受け入れてはくれませんでした。で、「檸檬」が登場します。