大人の「現代文」89……『こころ』ちょっと重いですがKという人物について
純粋人間Kの哀れ
前回、先生は恋に落ちているKに対して「二枚舌」の「背信」行為を行ったと書きましたが、裏切られているKはさっぱりそのことに気づきません。ここがこの小説の巧妙というか凄いところなんですが、Kはいわゆる「お人好し」なのではありません。いわゆる「好い人」ということではなく、そういう俗なレッテルを超えた「思想的純粋人間」として造型されていると考えるのです。
Kにとって親友の悪意を疑うなんて、ゆめゆめないことです。先生の言葉を借りるなら「正直」「単純」「善良」なのであって、他者を疑うことなく、ひたすら、自らの我欲の否定に邁進する姿を、先生も又「純粋人間」として評価しています。もしKが他者の動向に注意深く目を向ける(すなわち他者を疑う眼差しを持った)人間であったならば、先生のKを傷つけた苦悩も異なるものになったでしょう。
私は、漱石がこういう日本的純粋人間Kを造型した意図は、まず圧倒的な影響を受けた西洋の「個人」意識が根底にあると思っています。日本における「個人」とはどういうものかということです。日本においては、西洋的な「悪を内包する個人」という人間観はなく、純粋に他者との「絆」を信じきる日本的な人間観があります。その違いを踏まえたらどういう「個人」になるかということです。要するに、外形は西洋的な「自由意思」を持った「個人」風であっても、内面は、日本的な倫理の理想を徹底追求するとなると、どういう人間ができあがるかを示したかったのだと思います。
他人を信じ切ることと、己の欲を否定することは、全く違うことと思われますか?私は違うこととは思いません。いわばコインの両面のごときものであって、相手が常に自己の利害を念頭に行動するような人を、信じ切ることは出来ませんよね?『舞姫』のキーワードの一つであった「己の信じる人にはノーと言えない」とは、こういう「絶対信頼・我欲否定」の世界ではないでしょうか?
ということで、恋という「我欲」に目覚めたKは徹底的に自己矛盾の世界に苦悩していたわけですが、その矛盾を、先生によって、鋭く指摘され、自らの思想的な敗北を意識せざるをえなかったわけです。Kがこの場面で最後に語った
「覚悟、ー覚悟ならないこともない」
という表現は、Kがそれまで追求してきた、「無欲の思想」の重みを考えるならば、自分の思想的破綻を、その思想を「共有しているはずの親友」に指摘された、敗北の宣言と受け取るのが自然ではないでしょうか?つまりそれが彼の最後の行為につながるということです。
※ちょっと内容が内容だけに、重くなりすぎますが、勘弁してください。