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大人の「現代文」69……『こころ』先生の故郷での原体験について
先生は叔父さんにだまされたこと
では、「先生と遺書 下三~九」に進みます。
ここに書いてあるのは、先生の人生の原体験、信頼していた叔父さんに裏切られるということです。すでにnote62で触れましたが、もう一度おさらいします。
新潟で生まれ育った一人っ子の先生は二十歳前に突然両親を亡くし、茫然とします。父の財産は叔父が管理することになり、東京で高等学校に入ります。父が叔父を評価していたので、自分も叔父を信用していました。
初めて帰郷すると、叔父が我が家に住んでいました。そして突然従妹との結婚を勧められます。先生は断りますが、再度帰郷するとまた勧められました。私は断り従妹は泣きました。三度目に帰郷すると、叔父の態度が変わっていました。のみならず叔父一家の態度がまるで冷ややかでした。
さすがにおかしいと思い、叔父と財産について談判しました。そして善人もお金の前では急に悪人に成ることを知ったのです。叔父は先生の財産を流用し、従妹との結婚話もそれをごまかす為の策略と知りました。先生は怒りましたが、公沙汰にするのも時間がもったいないので、不承不承財産を現金化し、故郷とは一切縁を断つつもりで東京に出ました。親の遺産は少なくなってしまいましたが、学生として生活するには十分でした。
というわけで、先生はここで強い「人間不信」の感情を持ちます。これが先生の思想の原体験です。で、これは教科書(第一学習社)にも、先生は「強い人間不信」に陥ったと書いてあります。
ここで述べられているのは、先生の、つらい人生体験なわけで、当然純真な先生は傷ついたでしょう。
ですがよく考えると、先生は「叔父さん」という個人にお金を使われてしまったわけで、それで「人間不信」という一般化が自然になされるのは、ちょっと飛躍しすぎと思いませんか?(詳しく読むと単純に叔父さんだけではありませんが)いかに強烈体験でも、叔父さんはあくまでも、数ある「人間の一人」ですよね?
※これは私見ですが、私は、一人でも誰かに何か悪いことをされると、その人が人類の代表者になって「人間全体に不信感」を持つほど、我々は、人間への信頼が厚いのではないかと考えています。