大人の「現代文」19……『舞姫』豊太郞の自我の目覚めは現代の高校生にも響く理由
あらすじ4
前回、豊太郞の「自我の目覚め」は、明治の知識人の共有感覚だった(だろう)と書きました。ならば民主主義が浸透し、四民平等が完全達成された百五十年後の現在、豊太郞の「苦悩」は完全に「過去のもの」になったかというと、いやいやそうじゃありません。
これは高校生への説明の仕方にも拠りますが、豊太郞の苦悩はますます現代の高校生の苦悩と「被って」くるのです。え、なんで?と思われますよね。なぜなら、現代高校生も豊太郞と全く同じような葛藤を(こころの根本では)せざるを得ないからです。
なんじゃそれは!はい、わかりやすく言いますね。豊太郞は今までの自分の生き方に根本的な疑問を抱いたと書きましたよね。どんな疑問かというと、いままでの自分は、たとえば母親は自分が成績が良いと凄く喜んでくれた。それが嬉しくて一生懸命勉強を頑張ったと言っていました。親が喜ぶ顔を見たいから、お母さんを喜ばせたいから頑張ったというわけです。
対して、今の高校生は、しっかりした自分を持って、あくまでも「自分の興味関心」を維持して勉強に励んでいると皆さん思いますか?
もちろん、ノーです。本音で答えてくださいとアンケートを採ってみればわかるでしょう。おそらく豊太郞と同じです。一生懸命誰かを喜ばせたいから勉強しているという理由は強烈にあるはずです。
じゃあ、現代の高校生も豊太郞同様、そういう「自主性の無さ」に苦悩しているのか?いやいやそういうことを私は言いたいのではありません。現代の高校生は、え、そんな親を喜ばせるのってあたりまえじゃん、くらい思っているかもしれません。その意味では、現代の高校は豊太郞に共感しないかもしれない。でも、では「全く」共感しないかと言われたら、ドキッとする生徒は多いと思います。ここがポイントなんです。
続きます