大人の「現代文」65……『こころ』改めて最初から行きます。
「下 先生と遺書 一」から、卑怯とは何か。
では、ちょっと繰り返しもありますが、改めて「下 先生と遺書 一」から見ていきます。膨大な遺書の最初です。先生は現在の自分をこう語ります。
実をいうと、私はこの自分をどうすれば好いのかと思い煩っていたとこ
ろなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して
行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心の
うちで繰り返すたびにぞっとしました。駈け足で絶壁の端まで来て、急
に底の見えない谷を覗き込んだ人のように。私は卑怯でした。そうして
多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶したのです。(ちくま文庫「下
一より引用)
これが、先生の精神状態です。「人間の中に取り残されたミイラ状態」とは、要するに「人間世界から隔絶した状態」すなわち「完全孤独状態」でしょう。「孤絶」といってもいいと思います。「それとも……ぞっとする」のは死を意識したということでしょう。そしてそんな絶望的状態に陥った理由が他者にあるのではなく、自らの心の中の「卑怯」にあるということです。この「卑怯」は当然解明すべき最重要ワードですが、とりあえずここまでをまとめると、先生の現在の心理状態は、「自分の卑怯を意識すると、自分は死にたくなるほどの絶対孤独に陥る」ということになります。
ここでもう一つ、私が注目するのは、そういうふうに先生が感じることを、先生は、先生だけの特殊的な感性ではなく、「多くの卑怯な人と同じ程度に煩悶する」と一般化していることです。先生のいうことを言葉通りに取れば、先生のような「卑怯」な行為をすれば、誰しもその自分の卑怯な行為に先生と同様に煩悶するだろうということです。ということは、つまりこの「卑怯」という自裁感覚を人間の普遍的な感性としていることです。これは異論がありえますが、私はそう解釈します。
ではこの先生の言う「卑怯」とは具体的にどういう行為を意味するのか、という問題になっていくわけですが、もう少し、これを敷衍しておけば、『こころ』のテーマは「人はどんな『卑怯』な振る舞いをしたとき、その行為の後、死にたくなるほどの、自分は世界の中にひとりぼっち感覚に煩悶するのか」という「罪と罰」の話になるということです。