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大人の「現代文」101……『こころ』先生の死

先生の黒い孤独

 
 いよいよ先生の死について扱う場面になりました。ただ『こころ』下 五十一以後はホント重いんです。先生の自死は現代の常識では理解しづらいですし、先生自身も、読者の戸惑いを見透かしたかのように、「明治の精神に殉死する」のだと言い、自分の死が人には理解されないとしても「時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がない」と言うくらいですから、軽々にわかった風なことはとても言えません。青年を含めて読者の理解を期待しない先生(漱石)の書きぶりに、漱石という人の、心の底に揺らめく黒い炎のような孤独を感じます。

 というわけで、漱石を心から敬愛する私としては、この、先生の死の背後にある孤独感を思うと、どうしても筆が重くなってしまうのですが、しかしそういう思いを敢えて振り切って、先生の死の思いを慮ってみたいと思います。

 なぜ先生の自死を論じるのが困難かというと、Kの死は、あくまでKの立場で考えれば良いのに対して、先生自身の死は、その複雑さが全く異なるからです。先生の心の中での亡きKとの関係性の葛藤が中心になるとしても、新たに妻になったお嬢さんの立場を考えたぬいた上での、重い決断であるからです。現実的には、何不足のない結婚生活をし、しかも社会的には何の問責を受ける立場でもない先生が、ひたすら自分自身の行為を自分自身の価値基準で審問した結果の、絶対嘘をつかない状況で絞り出された判断だからです。

 しかし一体なぜ先生はそれほどに自分を責める必要があるのか。なぜ愛する妻を限りない苦悩に陥れることを承知の上で、なおかつ、その苦悩以上に、自らの苦悩の解決を先行させるのか。それほどにないがしろに出来ない先生の罪とは一体なにを意味するのか。

 これが私が56・57で指摘した、「倫理」の罪なのです。人は絶対信頼という関係を損ねた罪意識から逃亡することは出来ない、ということです。逆にいえば、人間は絶対信頼する人間を傷つけたとき、傷つけた人間もろともに自らも傷つかざるをえないという、極めてシンプルな真実なのです。

 もしこの掟とも言うべき、人間の約束を破ったらどういう罰を被るか、それが下五十三にこう書かれています。

    同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は
    頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の
    観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kはまさしく失恋のため
    死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかしだんだん落ち付い
    た気分で、同じ現象に向かってみると、そうたやすくは解決がつか
    ないように思われて来ました。現実と理想の衝突、ーそれでもまだ
    不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくな
    って仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い
    出しました。そうしてまたぞっとしたのです。私もKの歩いた路
    を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように
    私の胸を横過り始めたからです。(ちくま文庫  2023年七月) 

  この絶対的な孤絶感が、人間の倫理を失ったものの罰ということです。

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