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大人の「現代文」123……『檸檬』14レモンの正体「檸檬」

「檸檬」は再発見だから?


 ちょっと唐突ですが、皆さん、レモンを「檸檬」という表記でイメージされますか?されませんよね。なんでこんなおどろおどろしい表現を使うのか、いろいろ考えられるでしょうが、今我々に必要なのは「あの檸檬」ではなく「あのレモン」のイメージなので、以後レモンと表記してみますね。実際主人公も「レモンイエロウ」とその色彩を語り始めたので……。なんで「檸檬」という表記なのかはあとで考えます。

 前回「みすぼらしい美」の一員としての「レモン」が、憂鬱な感覚である不吉な塊を「紛れ」させてくれたとありました。そんな「逆説的な本当」で「私は街の上で非常に幸福だった」とそのレモンの意想外の大活躍を絶賛したわけですが、この展開上、そのレモンの魅力がもっと詳細に示されねばなりませんよね。見ていきましょう。で、引用しますが、意図的に「檸檬」を「レモン」と変換してみます。

    そのレモンの冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖 
    を悪くしていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼に私の熱を見せ
    びらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰の
    よりも熱かった。その熱いせいだったのだろう、握っている掌から
    身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。

 ここで示されているレモンの魅力は肺尖カタルによる「熱」からの(一時的な)ちょっとした解放でした。ということは「不吉な塊」の構成要素にやっぱり「肺尖カタル」はあったわけですね。次はどうでしょうか。

    私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。それ
    の産地だというカリフォルニアが想像に上ってくる。漢文で習った
    「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が切れ
    切れに浮かんでくる。そして深々と胸一杯に匂やかな空気を吸い込
    めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温
    かい血のほとぼりが昇ってきてなんだか身内に元気が目覚めてきた
    のだった。
……

 ここもやはり肺尖カタルの苦しい症状からのちょっとした解放の喜びが語られていますよね。やはり「不吉な塊」の「憂鬱」に肺尖カタルは大きく関係していたんですよね。

 そして
    実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこれば   
    かり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて
    私は不思議に思えるーそれがあの頃のことなんだから。

 「みすぼらしい美」への逃避行の果てに「レモン」は「憂鬱な不吉な塊」を弛ませるとても重要な存在として再発見されたのです。うーん、こうなるとレモンでは軽すぎますかね。やっぱり「檸檬」になりますか?

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