26.やりがいを感じた話 〜残される側の悔い〜
理学療法士になるための実習。
最後の実習で担当していた患者さんが亡くなった。
当然のことながら実習には真剣に取り組んだ。患者さんや指導者・各スタッフに疎ましく思われないかという不安、不合格になってしまわないかという危機感、自分を評価されているという緊張感、そういった心持ちで送る日々。帰宅後は寝る間を惜しんでレポート作成や調べものに心血を注いだ。
四苦八苦しながらも実習が進むにつれて、分からなかったことが分かるようになってきたり、見えていなかったことが見えるようになってきたり、自分の成長を実感しながら、わりと充実して過ごせていた――。
そんな最中、担当していた患者さんは状態が悪化し、実習終了まで残り1週間のところで亡くなった。元々状態があまり良くなくて、リハビリはあまり進まなかったし、リハビリ自体ができない日もあった。少し複雑で珍しい疾患だったのだが、その疾患について詳しく調べると予後がかなり悪いものだと分かった。それが分かったのは実習が中盤に差し掛かった頃で、すでに患者さんの状態は芳しくなかった。指導者の先生も俺が調べてきた資料を見せるまで知らなかったようだった。
俺は実習を通して自分の成長を感じていたし、充実感もあった。しかし、患者さんは亡くなった。自分が成長したところで患者さんを救えなかったら、役に立てなかったら、意味がない――。
――無力感 ――虚無
医療の限界、リハビリの限界を痛感した気がした。すべてが良くなるわけじゃない、そんなことは最初から分かっていたけど、いざ実感すると虚しくなった。そういったケースで役に立てることはなんだろう。意味のあることは、本当に必要なことは、なんだろう。リハビリも必要なものだと思う。最期のときまであるべきものだと思う。ただ、もし亡くなると分かっていたなら、予測できたなら、最期を迎えるまでの時間は患者さんやご家族にとって、かけがえのない時間であるはずだ。それは『あきらめ』ではなく『現実的』にだ。
急速に状態が悪化していたし、あのときの状態では、すでにできることは限られていただろうけど、あの患者さんとご家族は、悔いなく終えることができたのだろうか――。
――この経験をキッカケに、俺はばあちゃんのことをよく思い返すようになった。
[2.迷惑をかけないは迷惑をかけた 参照]
* * *
理学療法士になった俺は、病院で勤務した。
実際に働いているなかで感じていたことは、入院生活って孤独だということ。それはきっと誰しもが想像でき得ることだろう。いざ、目の当たりにすると胸が締め付けられるような気持ちになった。
面会できるとはいえ、当然だが家族や友人とは離ればなれになるし、なんでも自由に過ごせる場所ではない。行動の制限や食事の制限、自宅とは違うあらゆる制限がある。スタッフや他の患者さんもいて、周りに気を遣う人もいるだろう。迷惑をかけたくないと思う人もいるだろう。
「こんな孤独な空間から早く出してあげたい」という想いが強まった。
高齢者に限らずだが早く退院して、悔いなく、好きなように生きてほしいと、そう願った。経緯はどうあれ入院した高齢者の多くが、自分の残りの人生や死について思いを巡らせる。実際、そういう発言をしばしば耳にした。耳を塞ぎたくなるような、胸が痛むような、そういった言葉を耳にすることもあった。その度に俺の脳裏にはばあちゃんのことがよぎり、重ね合わせ、胸が張り裂けるような気持ちになった。
無事に退院できたとき、残りの人生の重みはどんなものなんだろう。感じ方も、見え方も、それまでとはきっと同じではないのだろう。会いたい人、伝えたいこと、やり残したこと、たくさんあるかもしれない。
――どうか退院して悔いなく生きてほしい
そう願った。
それは患者さん本人だけでなく、家族や友人など関わっている人たちにおいてもだ。
患者さんが無事に退院できたときはもちろん嬉しかった。ただ、俺は達成感や充実感をあまり感じられないでいた。達成感や充実感というよりも、退院できたことへの安堵感が大半を占めた。無事に退院できたのは、患者さん本人が治療やリハビリを頑張ったからで、俺が何かしてあげられたという感触はあまりなかった。患者さんの痛みや苦しみを理解してはいても、同じ経験をしていない俺にとってそれはあくまで想像上の理解でしかなくて、本当の意味で理解できているわけではない――という引け目を常に感じていた。
間違いなく理学療法士という職業は、相手に寄り添い、支えになれる本当に素敵な職業で、人の役に立てる職業。感謝もされる。
それでも俺は、それ自体にやりがいや充実感をあまり感じられないでいた。
俺がやりがいを感じたことは、理学療法やリハビリそのものではなかった。
療養病棟という病棟がある。そこは状態が悪かったり、寝たきりだったり、家庭の事情だったりで家に帰ることも、施設へ入所することも困難な人たちの病棟。ほとんどの人がそこで最期を迎えることになる――。それぞれ人生を歩んできた人たちが、最期をそこで――。
患者さんの状態は様々で、自身で身の回りのことをこなせる人もいれば、寝たきりの人もいる。寝たきりの状態で意識や自我をしっかり保った人もいる。
そんな様々な人たちの心の内を想像すると、いたたまれない気持ちになった。
病棟には看護士、介護士などのスタッフや他の患者さんもいて、誰かしらの人の気配はあるし、困ったときや何かあったときもすぐに対応できる。環境だけで見ると、孤独ではないように捉えることもできるが、それでも家族とはやっぱり違うし、あるいは「完全に独り」のほうがマシなのかもしれない。
多くの人が抱くであろう感情――迷惑をかけたくない。
自分の存在意義や価値・必要性を感じなくなること、そのように思い込んでしまうこともまた、孤独だと思う。それがいちばん苦しく辛いことかもしれない。ただでさえ孤独な空間で、そういった心情で送る日々はどのようなものだろうか―― 想像を絶する――。
単に環境だけではないし、孤独かどうかなんて他人のものさしで測るものでも、周りが決めることでもない。慮るべきは本人がどう思うかだ。
人の手助けがなければ生きていくことが出来ず、少しずつ弱っていく身体と、いつどうなるか分からないという不安のなかで患者さんは日々を過ごす。
長く生きてしまったことに負い目を感じる人、自分の存在が迷惑をかけていると嘆く人、早く死にたいと嘆く人もいる。
明るく気丈に振る舞う人、前向きな言葉を自身に言い聞かせている人、何も言わずに日々を送る人、そういった人たちの心の内はどのようなものだろうか――。
そして、ここで人生を終える――。
療養病棟で自分が担当していた患者さんに対しては、俺はリハビリ以外の時間にも声をかけることを心がけた。毎度とはいかないけど、病室の前を通っときには顔を出して、軽く手を振ったり、「調子どう?」「顔見に来たわ」などと声をかけ、他愛もない会話をする。そうすると、笑顔で応じてくれる人が多かった。それぞれ性格は違うから、自分なりに対応の仕方には気を配った。
定時までに業務を完遂できたときには、余った時間を利用し、患者さんのところへ顔を出すこともあった。「仕事終わったから時間つぶしに来たわー」「サボりに来たわー」そんなふうに言うと患者さんは笑顔で応じてくれた。一緒にテレビを見たり喋ったりして部屋を出るとき、手を振ったり、握手をすると患者さんは笑顔で見送ってくれた。そのように関わっているときの俺は「理学療法士」「仕事」というより「ただの人」という感覚があった。
俺がそのように取り組んでいることを知っているのは親友を含めた数人だけで、おっぴろげにはしなかった。それが必ずしも当たり前ではないし、当たり前にすることは難しいと分かっていたからだ。また、組織や集団においてこういうやつが「浮いた存在」になる風潮が世の中には存在していることを俺は知っている。だから、自分の想いや考えをおっぴろげにはせず、コソコソとあくまで陰の取り組みとした。
それに、堂々と言えるほど俺も徹底できたわけではない。綺麗事ばかり並べるのが嫌いなので正直に言うと、俺も人間だから体力的にしんどいときや、単純に気分が乗らないとき、そいうときもあって、陰の取り組みをしないときも多々あった。モチベーションを保ち「当たり前」にできるほど定着できなかった。それを「弱さ」というのかもしれない。俺も人間だから――そんな言い訳をするような俺だ。俺はそこまで善人じゃない。真の善人からみれば所詮、偽善者だ。それでも「やらない善より、やる偽善」。
そういった俺の陰の取り組みは、患者さんにとってひとときの『現実逃避』に過ぎない。
『現実逃避』それはきっと、人間誰しもが無意識のうちに求めているものだと思う。怒り、悲しみ、孤独、不安、不満、疲弊、弱気、虚無……そういった大なり小なり誰しもが抱えている俗にいう負の感情。それらから逃れるために、飲食、飲酒、会話、恋愛、性欲、ギャンブル、タバコ、テレビ、マンガ、音楽、誹謗中傷………など、人は何かしらの方法で現実逃避を求める。もちろんすべてが現実逃避を目的としているわけではない、ということは重々承知。
現実逃避が度を超えると、ものによっては身を滅ぼすことに繋がる可能性もあるんだと思う。『現実』と『逃避』そのバランスって大事なんだろうなぁって思う。
孤独のなかでは“気にかけてくれること”そんな些細なことでも嬉しくて『現実逃避』になるんだ。つらい、しんどい、いたい、くるしい、さみしい、しにたい、めいわくかけたくない……そんなマイナスな思慮・思考から少しでも解放されることが『現実逃避』になるんだ――そう思うようになった。俺自身“気にかけてくれたこと”で救われた経験がある。
患者さんが抱く孤独感や様々な負の感情を少しでも紛らわすことができたとき、そう感じるとき、俺はやりがいを感じた。空いた時間にスタッフとダベるよりも、患者さんと喋ることのほうが有意義に思えた。
理不尽な暴言を吐かれたり、冷遇されるなんてこともザラにあるが、それも患者さんにとってはストレス発散になっていて現実逃避になっているんだと思えた。自分が過去にイライラしたときのことや、八つ当たりしたときのことを思い返すと、やはり何かしらのストレスを抱えていたと思う。
“現実逃避”
何が迷惑になるか分からないから――。何で嫌われるか分からないから――。
明るい自分でいること、いじられる自分でいること、それを自分の役割として過ごした少年期。[10.何が迷惑になるか分からないから 参照]
腹が立つことや嫌な思いをするときがあってもそれを表には出さず、明るく乗っかり、時にはツッコミ、時にはいじり返して応じた。楽しいことのほうが多かったけど、ずっとその自分でいることがしんどくて、このキャラを、役割をやめたいと思うこともあった。それでも自分の役割を全うした。
しんどくても、みんなが笑ってくれることが嬉しかった。その瞬間が俺にとっての現実逃避だったような気がした――。
今でもそれが、俺にとっての現実逃避なのかもしれない。
* * *
入職して3ヶ月ほど経ったときのこと。
療養病棟に患者さんが転入してきた。在宅復帰を目指して尽力したが状態は下降線をたどり、療養病棟へ転棟の運びとなった。
俺と先輩の作業療法士が担当することになった。
その患者さんは、寝たきりの状態で、口から食事をすることができず常時点滴で補っている。排泄はオムツと尿道カテーテルで管理。足は拘縮でカチカチに曲がった状態。「おはよう」「大丈夫」など簡単な意思疎通は可能だが、それも毎回ではない。そういう状態のため、先輩と病棟スタッフの間では、起こさない、車椅子には乗せない、ということが決議された。腑に落ちない部分はありつつも、新人だった俺は静観し従った。ご家族にも説明のうえ、納得して頂けたようだった。
――しかしその後も、
「車椅子に起こしてほしいんやけど」
ご家族はお見舞いに来られる度に、病棟スタッフに訴えているようだった。我々が常にそこの病棟にいるわけではないので、その度に病棟の看護士さんがご家族に改めて説明していた。それでもまた後日「車椅子に起こしてほしいんやけど」ご家族は訴えてくる。それの繰り返しだった。あるときは、我々担当以外のリハビリスタッフを捕まえて、凄みを利かせながら訴えてくることもあった。
それが少し問題になった。やがて、折り合いが付かなくなった先輩は担当を外れ、俺が1人で担当することになった。俺は車椅子に乗せてあげたいと思っていたし、リスク管理さえすれば可能だと思っていたので、そのことを病棟の看護主任に相談すると、車椅子に乗せる方向で話は決まった。主治医にも許可を取った。
ただ、少々の迷いはあった。
患者さん本人がそれを望んでいるのか分からない――。身体に負担を強いるだけで結果的に寿命を縮めてしまうのではないか――。本当に正しいことなのか――。
そんな心境を吐露しながら俺からご家族に説明をする。
「車椅子に乗せることはできます。ただ、もしかしたらご本人は車椅子に乗ることを、しんどいと思っているかもしれないですし、苦しめることになるかもしれません。もしかしたら、結果的に寿命を縮めることになってしまうかもしれませんが、それでもよろしいんですか?」
大袈裟に言い過ぎてしまった気もしたが、新人だった俺の不安を払拭したい気持ちと、ご家族の気持ちを確かめたい気持ちを素直に吐露した。
すると、奥さんと息子さんは力強く頷いた。
それだけでお二人の気持ちは十分に伝わった。
――毎週土曜の14時。リハビリの時間を利用し、リクライニング式の車椅子に乗せることになった。スケジュールの兼ね合いもあったため所要時間を設定。その日の状態によって看護士やドクターからの許可が降りることも条件だ。
病院の外に連れて行くことはできないので、毎回院内から景色が見える窓辺へ行った。
「お父さん、見える?」
「私、分かる?」
「すごい痩せてしもたなぁ」
「昔はよく一緒にあの山登ったなぁ」
「この人、昔は頑固でね……」
旦那さん、奥さん、息子さん、俺の4人。いつも話しかけるのは奥さんで、息子さんはその様子を見守った。俺は定期的に血圧などバイタルを測り、時に相づちを打ったり、会話に混ざりながらその様子を見守った。
旦那さんは声のほうへ目を向けたり、時々単語にもならない言葉で声を発していた。状況を認識していることは確かだと思う。
――微笑ましい光景だった。
少し前まで「車椅子に乗せてくれ」と凄みを利かせていた印象とは打って変わって、いつも朗らかなお二人だった。いつまで続くか分からないかけがえのない時間、刻一刻と過ぎゆく時と共に、そこには溢れんばかりの家族の愛が刻まれていた――。
――ある頃から車椅子に乗せることも難しい状態になった。誰が見ても分かるほどに。
「さすがにもう車椅子に乗せてくれとは言わんから」
ご家族も理解されていた。
きっと覚悟している―― やかで来るその日を―― 刻一刻と―― 思いにふけながら過ぎゆく時の流れに身を任せる日々――
――そして、息を引き取られた。
当日、奥さんと息子さんが病室に来ていたようだった。
きっと泣いているだろうし、こういうとき何て声をかければいいんだろう……。気まずいな……。
俺は廊下で立ち尽くし、病室に入れずにいた。
「顔出してあげたら?」
俺の胸中を知ってか知らずか、看護主任がうしろから声をかけてきた。
「なんか、ちょっと気まずくて……」
「えー大丈夫やって、行ったら喜んでくれるよ」
看護主任に背中を押された。そのとき、
「あっ」
奥さんと息子さんが病室から出てきた――。
どうしよう……
まだ心の準備も出来てないし……
なんて声をかければいいのか……
“ギュッ”
「ほんっっっっとうに、ありがとうございました」
そう言いながら俺の手を力強く握る奥さん。目に涙を溜めてはいたが、満面の笑みだった。続いて「本当にありがとう」と言いながら俺の手を力強く握る息子さんの目頭はほんのりと赤くなっていたが、笑顔だった。
涙を流し――悲哀に満ちた――そんなお二人と対峙することを想像し、困惑していた俺だったが、想像と遥かに違うお二人の様子にますます困惑して言葉に詰まった。
「いえいえ、大したことはできなかったですけど」
絞り出せたのはありきたりなセリフ。
これまでの人生で味わったことのないような気持ちだった。嬉しいとか、感動したとか、そんな言葉では表現できないような、そんな気持ちだった。
――やってよかった。
それはきっとばあちゃんのことや、実習での経験があったからこそ。
あのときのお二人の笑顔を俺は忘れない。
* * *
“悔いなく生きてほしい”
ばあちゃんのことと、実習での経験によってその想いは強くなった。
そのときのばあちゃんの光景はわりと鮮明に覚えていて、今でも時々ふと思い出して考えにふけることがある。当時5歳だった俺ですらそうなのだから、当時いちばん近くで関わっていた母は、第一発見者になった母は、泣き崩れた母は、どのような感情を抱きながら過ごしてきたのだろうか―― 聞きたくもないし、想像したくもない。
何を想ったところで、もうどうすることもできないのだから――。記憶に残したまま生きるしかないのだから――。
家族に迷惑をかけない方法として、ばあちゃんが下した決断。それは家族への深い愛情によるもの。ばあちゃんにとってはそれが『悔い』を残さない決断だったのかもしれない。でも残された側にも『悔い』は存在する。そして、その『悔い』を心に秘めたまま生きてゆかなければならない。「自分がもっとこうしておけば」「自分がああしてしまったから」などと自分を責め、もうどうすることもできない後悔や罪悪感。薄れることはあっても、きっと一生消えない。消してもいけない。
こんな言い方をすると冷たく聞こえるかもしれないけど、人はいつか死ぬし、死んだら終わり。死んだらどうなるかなんて実際は分からない。勝手に悔いなく死ぬなんてずるいよ。もちろん死ぬ側の悔いは大事。けど、残される側の悔いも大事。
経緯はどうであれ身近な人が亡くなると「もっとこうしておけば」「ああしてあげればよかった」など誰しもが多少の悔いは抱くのかもしれない。だからせめて、最期がみえてから『悔い』を最小限にできたらいいよね。それで救われる想いもあるよね、きっと。
患者であった旦那さんの気持ちははっきり分からないけど、あのときの奥さんと息子さんの笑顔。少なくとも残された側のお二人は悔いなく最期を迎えられたのではないかと、そう思えた。
俺は人生でいちばんと言えるほど嬉しかったし、本当にやってよかった。
あのときのお二人の笑顔を俺は忘れない。
故人を想うことは大切。
生きている人はもっと大切。
生きている人がいちばん大切。
今日を生きている皆さんを、ぼくは応援したいです。
自分らしく
悔いなく
生きてください
――偽善者より