クリスマス短編1
店の軒先にはこれほどかというほどのクリスマスツリーが見える。目に入る店は大抵ツリーを構えて、客人を招き入れようとしている。飾り付けられたオーナメントは、寒さがゆえにどこか殺伐としがちな冬自体に飾り付けをしているようだ。緑と赤という、補色の鮮やかな組み合わせは人々の目を引く。厚着に手袋をして、雪が降るような日に似つかわしい風景が、人々がそれを似つかわしく思うような価値観を長い時間をかけて身につけてきただけかもしれないけれど、どこか悔しい。
意識のしすぎかもしれないが、ここ最近は恋人たちが一緒に歩くのをよく見るようになった気もする。寒いね、と言わんばかりに距離感を近づけ、それを周りに誇示しているようだ。おそらく自分もその立場に立てば同じことなのだろうが、そのヴィジョンは僕の中にはない。恐ろしいほどに近いその距離感は、点電荷と同じで、異符号のときには何の問題もないのだろうけど、同符号になって反発してしまったらたちどころに崩壊してしまう危険性を孕んでいる。その危機感を発信しようと試みたところで、僕を出てから二人に衝突する前に幸せシールドに完全にブロックされて伝わる余地はない。
去年、クラス内恋愛が流行って、自分が仲の良かったはずのグループの輪に親和できなくなってからというもの、恋人という存在はどこか排他的なニュアンスを含んだものなのかと思っている。二人だけの親密な関係は、その間にカミソリ一本を通すことさえ許さない。ましてや僕など。そして出来上がった幸せシールドが、僕を無限遠まで蹴飛ばして、一見風変わりな自分が親和する余地をなくしていった。当然そんな状況に耐えられるはずもなく、当時は大いに悩み抜いた。今は怒りに変わって未だに心に残り続けている。
対して自分自身はというと、それはそれで残酷だったのだ。悩みが増幅してからというもの、自分のテンションに歯止めが効かなくなって、完全に狂人扱いされた。恋などできるはずもない状態に陥った。認めたくもないのに、認めざるを得ない人生の汚点が、また一つ加わった。取り返しのつかないことなのかもしれぬ。
これだけ考えてやはり思うのは、恋人の距離感に対する危機感も、クリスマスツリーへの悔しさも、冬は殺伐としているというイメージさえも、嫉妬心の裏返しだということ。やり場のない嫉妬心と怒りが、結局自分を破滅に導くということ。いくら居場所を失っていたとはいえ、去年の自分にとどめを刺したのは自分自身だということ。
一年間こう言い聞かせて、自分を律してきたけど、限界は近いと感じる。溢れんばかりの悔しさと嫉妬心が行き場を失って右往左往としている。一挙手一投足に感情が表れているのではないかと疑ってしまう。なんとかなると信じてきたけど、未だに恋人同士で歩く様子には幸せシールドを感じてしまう。自分の歩いていく空間自体が幸せオーラに歪められて、窮屈になって、歩きにくくなる。イルミネーションもクリスマスツリーも金城鉄壁の要塞のように見える。まるで自分は入ってはいけない領域があるのかと、恐怖を感じる。降る雪は多分、自分への刃だ。雪の結晶はあまりに鋭く自分を切り裂いてしまう。
考えれば考えるほどに、自分はこの世界にかえって閉じ込められて、出口を見失う。居場所を失う。分かっているのに、考えることを止めることもできない。今自分は囚われの身だ。クリスマスという閉鎖的で排他的なイヴェントは、充実者以外を洗い出して締め出そうとしてくる。なのに、自分はそれに抗って出ようとはしない。考えることをやめはしない。結果、自分は居場所のない空間を彷徨うだけの存在だ。
はて、それは正確だろうか。自分を閉じ込めているのは、クリスマスというイヴェントそのものなのか。いやそうではないかもしれない。おそらくそのアンサーはクリスマスというイヴェント自体に長い時間をかけて定着してきた、リア充の雰囲気。そのイメージが、僕を際限なく苦しめる。僕を果てしなく遠くへと閉め出そうとする。僕はそれと戦おうとしているのである。残念、僕一人の力では今更どうすることもできない。もはや国民的となったこのイヴェントを破壊するほどの力は持ち合わせていない。
そのときだった。一閃の光が僕の頭を貫いた。僕の中でだけでも、かのイメージを変えることはできる。総勢1億数千万が想像も創造もしなかったような発想をもって、その虚構的概念を根こそぎにすることはできる。それは簡単な話でクリスマスツリーとは自分の崇高なる化身だと思えば良いという、ただそれだけのことであった。
それから世界は変わった。店という店は私の化身を置いている。そして何より、元来はキリストの降誕祭であったはずが、いつの間にか変えられてしまったそのイメージを、僕という世界のしもべを経て元に戻すという第一歩となる。単純に、僕の化身というイメージが定着すれば、キリストにその座を返そうというだけだ。僕は決して信仰はないが、それでも理不尽に奪われたものを復権させる方が良いというくらいの価値観はもっている。ちょうど、見知らぬ人でも盗みにあっているのを見れば流石に同情をするのと同じように。僕は所詮、概念の枠組みに痛いほどに雁字搦めにされた、虚構世界の奴隷だが、こうしてこの世界に復権を図る。クリスマスツリーとは、私の化身同様の存在である。
そして最も面白いのは、こうすることで日本人にとって幸福と輝きの象徴のようなクリスマスツリーは、幸福も輝きも程遠いこの僕が担当することになるということ。平和も混沌も知らぬハトが平和の象徴とされるように。しかしながら、これはこれでちょうどいいのである。知りすぎた人間には自己流の考えが芽生える。自己流の考えをもった人間が全体を代表するのは不可能だ。ただ、何も知らぬ者こそがこの世界の代表たり得る。ニュートラルでいるからこそ何色にも染まれる。赤も青も、黒でさえも白で代表するのがふさわしいのである。
結局、言いたいことなどない。ただ街を歩けば今日も明日も、この人生が続く限りはこの風景は一年に一度は広がり続ける。私がこの世界に復権を果たし、元来のこのイヴェントのあるべき姿を取り戻すことができるかどうかはわからない。最も残酷なのは、恋人たちは僕などには見向きもしていないだろうということ。どれだけ声高らかにこの論を述べたところで、たとえこの論が孔子のものだったとしても、その幸せバブルフィルターを貫通することはできまい。一体全体、私がこの世界に復権を遂げる方法は、結局のところ、そちら側の世界へ足を踏み入れるだけなのかと感じて、つい先程まで感じていた圧倒的な優越感はどこへやら、ため息が嵐のように溢れ出す。