夜に泣く━━━
ライブに行って感極まったことを「ガチ泣きした」という言葉で表現するタイプの人間たちがいる。そうした表現をしたくなるほど高まることを理解しながらも、本当に泣くほどか?と疑問に思っていた。しかし、本当に泣くほどだった。アイドルマスターシャイニーカラーズ4thライブ 空は澄み、今を超えて の1日目、僕はサイリウムの海の中でで号泣した。
二次元コンテンツは昔から好きだったし、アイドルマスターシリーズは高校時代に好んで摂取したコンテンツだった。ハマったという言葉で言い換えることも当然できるし、声優ライブにも良く足を運んだ。高校2年生の1年間には12回、声優個人など他のライブも含めると月1回ペースでライブに行っていたらしい。熱心なことだし、楽しんでいたが、ともかくも楽しむラインで止まり、感情移入することはなかったと思う。一つの証左として、実際に泣いたことはなかった。
受験期にコンテンツに触れる余裕がなくなってからはライブに行くこともなくなり、そのまま3年が経った。3年の間、特にそうしたコンテンツに戻る必要性は感じなかったし、だからそうしなかった。世間にそうした自分を出す必要性も普段は感じなかったので、稀に感じた時以外出すことはなかった。世に言うオタ隠しのワンパターンだ。
大学2年の夏、アイドルマスター内の最新コンテンツ、シャイニーカラーズ(以下シャニマス)を始めたのは、たまたま高校時代の友人に布教されたからだった。もっというと、たまたまその時にピックアップガチャが開催されていた樋口円香というキャラが気になったからだった。つまるところ、ちょうど周りにプレイしている友人がいて、ちょうどその時気になるキャラがピックアップされていたという偶然の重なりによって始めたわけだし、そんなにのめり込むつもりはなかった。
だが、のめり込むことになった。別にゲームそれ自体が面白いわけだからではない。ゲーム自体の面白さで言えば、シャニマスは中の下のソシャゲといったところだ。僕をシャニマスにのめり込ませたのは、そのコミュの充実具合だ。一人ひとりのキャラを貫くストーリー、ゲームでは描かれない過去に醸成された人間性を含むストーリーが用意されており、キャラのそれぞれのカード、シナリオで、個々のストーリーに沿ったコミュ…ショートストーリーが展開される。その内容がとにかく面白いのだ。
何よりも、そのコミュにプレイヤーが介在する余地がない。他の二次元アイドルゲームのコミュはプレイヤー=プロデューサーがキャラとのコミュニケーション、あるいはキャラ同士のコミュニケーションを楽しむものが大多数であるが、このゲームのコミュは違う。プレイヤーとは全く違った主体としての、つまりプレイヤーの操作余地がないプロデューサーが存在し、彼とキャラのやりとりを楽しむものになっている。これがこのゲームのコミュを最も面白くしている要素だと思う。これによって、萌えモノとしてではなく、純粋に読みモノとして楽しむことができるのだ。
当然、樋口円香にもストーリーがあり、コミュがある。だが、彼女の人間性…キャラクター性と言った方が適切だろうが…は、アイドルマスターというコンテンツからするとかなり異質で、対極にあるようにも見える。
アイドルマスターというコンテンツを貫くテーマは、情熱と努力によってアイドルを輝かせることができる、輝いたアイドルは世界に希望を見せることができるという、どこか青臭く、説教臭さまで感じるものだ。だが、幼馴染を預けるに足りる事務所を監視するためにアイドルになったと嘯く彼女は、そうした情熱を嫌う。情熱100%のプロデューサーを嫌悪する。ほどほどで良いといい、本当の自分を見せるのを嫌がる。それはプロデューサーに対してもそうだし、ファンに対してもそうだった。
とても簡単に、そしてとても俗的に言ってしまえば、彼女のストーリーは、アイドル活動を通してプロデューサーに心を開いていく物語だ。
だが、彼女のストーリーを陳腐でありふれたものに変えてしまうそんな言葉を僕は使いたくない。僕はこう表現する。樋口円香のストーリーは、最初は諦観に支配されていた熱情が、徐々に諦観を支配していく物語だ。
情熱を嫌う彼女には、本来、人間誰しも生まれながら持っている、あるいはそのレベルを遥かに越えた情熱があった。だが、彼女はそれをパンドラの箱にしまってしまった。なんでもそれなり以上にできる「優等生」としての彼女にとって、そうすることが、恵まれた自分に敷かれたレールを外れないことが、合理的だったからだ。そう判断した、あるいはせざるを得なかった彼女は、情熱を嫌う素振りをすることで自分の「合理的な」選択の、ピトスにしまい込んだことの理由付けをしてきた。
だが、そう思い込もうとしても、それが簡単な道のりでなかったとしても、生まれながらの熱情というのは簡単に捨てれるものではないし、なかった。そこに彼女のもう一つの側面が現れる。彼女は、樋口円香は、うわべだけの言葉や行動を嫌悪する。やらせのようなテレビ番組を嫌う。そのやらせに乗って笑われるアイドルを笑わない。恵まれた自分の言葉は軽いと思っているからこそ、うわべだけではない、美しい言葉を求める。
彼女のアイドルへの姿勢は、その二つの面、合理的に判断する面と情熱的に動こうとする面が表裏一体となっている。とりわけ歌うことに対して、彼女は情熱的だ。喉を壊してでも歌おうとする。その一方で、歌によって自分を表現することを否定する。カラオケ同然の自分のソロライブよりプロのライブに行った方がよいと毒づく。そういう「合理的な」判断によって、自分を表現しないことを、自分の衝動的な熱情を押し殺すことを正当化する。
そんな彼女に、当のソロライブの提案をしたプロデューサーはこう説く。なかなか心を開こうとしない彼女に向き合い続け、それゆえに熱情を持つ彼女がそれを押し殺していることに気付いたプロデューサーは、こう言う。円香を自由にしたかった、と。ファンがアイドルに抱く幻想、文字通りの虚像としての樋口円香だけではなく、合理的判断だけをしようとする樋口円香自身からも、他人の価値観の中で生き、自分を殺そうとする彼女を解き放ちたかった、と。円香は自由なんだよ。
世間がアイドルという偶像に求めるものから彼女自身を解き放つというこの物語は、シャニマスのテーマである虹…シャニマスはそれぞれのイメージカラーを赤・橙・黄・緑・青・紫・ピンクとする7つのユニットで構成されている…とも密接に関わってくる。プロデューサーが円香を「解放する」コミュの冒頭で、円香は独白する。。色は混ざれば濁る、そうして塗り潰された夜になった、と。ファンが、世間が求める色々なイメージに縛られることで、あるいは自分やごく周辺以外の色と混ざり合うことで、本来自分が持っていた色は塗り潰されて黒くなり、美しいものではなくなってしまう。夜に溶けてしまう。
そんなことを拒否した彼女の一番最初のシナリオコミュのタイトルは"夜に待つ"だ。塗り潰された色を嫌いながらもその世界にいて、そしてそんな世界から出ることを、朝が来ることを陰ながら望んでいる。そして、アイドル活動を続ける中で、彼女は徐々にアイドルが「塗り潰された」ものではないことに、意識せずとも気付き始める。プロデューサーはそれを自覚させ、円香に自分の色を出していいんだと説く。色は混ざるのではなく、重なりあって光になるんだと。光になって、それを見るもの、聞くものに光を、希望を届けるのだと。そう説くこのコミュのタイトルは、「yoru ni」である。夜に待つのではなくー
ここまで書いたらわかるだろうか。僕が樋口円香というキャラクターに激しくのめり込んだわけは、彼女の見た目が好みだったからというだけではないーそういう側面があったことは否定しないが。つまるところ、僕は、樋口円香という人間に、随分と不相応な自己投影をしているのだ。
現代社会は非常に生きづらい。常に周りからの目を気にしなければいけない。敷かれたレールを外れるという選択を自らの内在的要因によって行うことは、本当にごく一部の勇気ある人間にしかできない。衝動で動くことのリスクを知らないうちに考えてしまう。そうして生きていくうちに、自由であるということはどうであるか忘れてしまう。肉親や友人などを含めた周りの目という幻影に囚われ、あるいは敷かれているレールを外れることなどありえないという「合理的な」判断に捕われ、自分の意思で動くということがどういうことか忘れてしまう。自分の中にあったはずの熱情を忘却してしまう。そうして残ったものは諦観だけだ。
僕も例に漏れず、たまたま恵まれただけで本当に臆病な人間だ。違和感を抱くような周りに反発しようとしてみたり、別の行動を取ろうしたりしてきたし、している。世にいう逆張りという奴だ。だが、僕の逆張りは、常にリスク計算を頭の中で働かせてしまい、結局は敷かれたレールを外れたことが一度もない自分に対する最大限の皮肉にすぎない。小さいところで逆に張っているように見えても、それは結局のところ、大きなところで自分の熱情に沿った選択をすることに繋がっていない。自分の熱情に沿って大きな選択をしようとする時、僕は常にそのリスクを考えてしまう。あるいは、小さい選択をするときもそうなのかもしれない。つまり、僕が逆張りをするのは、リスク計算の結果として今は衝動に従って動いても大したデメリットは負わないと判断したときだけだということだ。それのどこが衝動なもんか。熱情なもんか。熱情っていうのは、もっと冷たくなくて、熱くて、自分を心の底から突き動かすもののことだ。
そんな僕に樋口円香のシナリオは刺さった。刺さったが、刺さっただけだった。彼女のアイドルとしての着地点を描いたシナリオ、Landing Point編が実装されてから、そうして半年が過ぎ、先日の4thライブを迎えた。
彼女の所属するユニット、ノクチルのパートが始まる直前に、彼女がアイドルを始める時の彼女に書いたという体の手紙(一種のシナリオといって差し支えないものだろう)が流れた。そこにはこう書かれていた。『歩かなければどこにでも踏み出せる。でも踏み出さないことに理由をつけてすました顔をするのは許さない。そんな考えは甘い』と。刺さるなんてもんじゃなかった。自分と同じように、踏み出すことを、レールを外れることを、自身の衝動に従って生きることを「合理的な」理由付けによって避けてきた樋口円香の言葉だからこそ、この言葉の破壊力は強くなる。そんな考えは甘い。甘いんだ。
そして、ライブパートが始まり、目の前に樋口円香役の声優さんが見えた瞬間、涙がとめどなく溢れてきた。まるで、円香が僕にこう言っているように思われた。私は自由に羽ばたき、自由に歌っている。あなたも自由になったら、と。この涙に感情の名前をつけることはできない。だが、本当に僕を解き放ったように感じられた。僕を縛っていたものが外れたように感じた。周りのオタクの目も憚ることなく泣いた。今も、泣きながら書いている。
樋口円香というアイドルの着地点を描いたLanding Point編において、彼女は自身のライブに来たファンに、歌は耳で聞くものではなく心で聞くもので、皆さんの心を、生き方を通して響く歌だと言う。本当にその通りとなった。僕は自身の生き方を通して樋口円香という人間の紡ぐ歌を受け止め、それを心の隅々に響かせ、その虹色の光を感じて涙した。
オタクが推しのライブで、それはアイドルライブでも声優ライブでも同じことだが、涙する理由がやっとわかった。その推しに自身を投影し、その生き様を感じて泣くんだ。自身の生き方を通して彼の、彼女の生き様を感じ、心から溢れる衝動によって涙するんだ。
樋口円香というキャラクターはキャラクターでしかない。だが、彼女は僕に一つの生き様を示してくれた。その生き様を心の全部で受け止めた人間として、僕もこれからはもっと自分の衝動に、熱情に正直に生きていきたいと思う。その第一歩としてこの文章を書いた。書きたいと強く思ったから。
アイドルマスターシャイニーカラーズは、先述したように、個々のキャラクターの人間性が深堀りされている。それだけでなく、彼女らの人間性は、現代社会を生きる我々にとって共感しやすい、「実在性の高い」ものとなっている。もし興味を持ったなら、シナリオを読むだけでもゲームを始めてみたらどうだろうか。それが自身の衝動に従うことであり、熱情に正直に生きる第一歩となると思うなら。