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Thelonious Monk - Genius of Modern Music

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僕はこれまで、田舎者であるとか、容姿が醜いとか、貧乏であるとか、そういうコンプレックスを感じることなく、生きてこられた。幸か不幸か。周りもそんな輩ばっかりだし。ただ一つ、劣等感的なものがあるとすれば、それは学のなさ。

まったくわからない量子力学の本とか、難解なジャズとか、退屈な西洋古典音楽を聴いたりするのは、そんなコンプレックスの裏返しなのかもしれない。これは、そんな教養のない田舎の農夫の書くものであり、あまり真面目に読まないでほしいという言い訳でもある。

つい先日、ドビュッシーが「ジャズの父と呼ばれている」とするテキストを目にした。教養のなさから、僕が知らないだけなんだろうなと思ってスルーしていたけど、ネット検索して見たところあまりヒットしない。こんな風にしてみんなで適当にスルーとしていると、これがあたかも定説であるかのように扱われるようになるんだろう。真実なんて案外そんなものなのかもしれない。

地球温暖化だって、原因がCO2の増加にあるとする説が今や反論の余地のない定説とされ、それに基づいた経済ゲームが繰り広げられている現状において、この説に異を唱えようものなら、米国の福音派とか、Qアノンのようなリテラシーの低い人みたいな扱いを受けかねないので、あんまり言わないほうがいいんだろうけど、農夫的には地球が寒冷化するよりも、温暖化してくれた方が正直ありがたい。

だいたい日々自然界のパワハラを受け続ける我々農夫にとって、地球とは慈悲深い母であり、同時に無慈悲な父である。二酸化炭素を減らしてどうのこうのとか、人間の手で自然環境を改善しようだなんて言い出そうものなら、なんと不遜な!と先祖に祟られてしまいそうで怖いし。地球は人間ごときがコントロールできるものではないし、そもそも人間ごときが汚すことすらできない畏怖すべき存在。我々人間風情ができるのはせいぜい森林を焼き払うくらいだ。

もし仮に地球が本当に温暖化していて、その原因が二酸化炭素にあるとして、脱炭素がうまくいって地球が寒冷化しはじめ、うちの畑の作物が不作続きになったら誰がどう責任をとってくれるのだろう? 遺伝子組み換えで寒冷地域に強い作物を作ればいいの? 

もしそんな事態になった時に、北欧の環境少女をはじめ、我々のような愚民を扇動した奴らはどう落とし前をつけるつもりなのか? そんなことを人前で言うとこれまた人格を疑われるくらい否定されかねないので、普段は口に出さないけど、これだけは言っておきたい。人生経験に乏しく、責任能力も判断力もない、十代の子供にあんなパフォーマンスをさせた(本人にそのつもりはなくとも、そういう環境を作り上げた)親の良識は疑われてしかるべきだろう。

話がだいぶ脇道にそれた。

いわゆるクラシック音楽といわれるジャンルにおいて、ドビュッシーほど幅広い層に支持される音楽家はいないかもしれない。ジャズやロック、現代音楽、19世紀までの西洋古典音楽ファンをも魅了するその音楽の特徴のひとつは、当時としては随分奇抜な和声であり、絶妙な伝統と革新のバランスであるはず。この点をもってドビュッシーをジャズの父とするなら、うなづけなくもない。

その伝統と革新のバランスをジャズの世界でエレガントに表現した音楽家の筆頭が、セロニアス・モンクではないだろうか。彼の素晴らしい楽曲、演奏の数々は、西洋古典を体得し、新たな時代、そして自分の思想にふさわしい和声を探し求めた結果生み出されたもの。そのハーモニーが今も我々を魅了する事実は、何を意味するのだろうか。

今から70年前(!)の1950年代初頭にリリースされた本作の音は、すでに“セロニアス・モンク”Round About MidnightRuby, My Dearなどの大名曲もそろっており、当然のことながらあの不協和音すれすれのハーモニーも完成されている。

当時のジャズ好きはこれをどう聴いたのだろう? 緊張と緩和が目まぐるしくやってくるあの独特のヴォイシングをモンクのミスショットだと思っただろうか? 

モンクが表現したかったのは、日本的に言えば“不完全の美”といったような、完璧を求めない侘び寂びの世界だったのではないか。そもそも完全って何? 不完全とは? 美とは? 生きる意味とは・・・・・・とにかく考えに考えて、考え続けること。それこそが、いやそれだけが人生の意味なのだと。だから今日も僕は、ちんぷんかんぷんな量子力学の本を読んでいる。

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