Brian Wilson - At My Piano
我々日本人が真珠湾攻撃を反省する季節がやってきた。最も反省すべきは、我々戦後生まれの人間が、戦前の大日本帝国をまるで別の国のように扱い、ろくに検証することなく、常軌を逸していた存在として蓋をしてしまったこと。先人たちの非人道的な所業も、あるいは努力や創意工夫も何もかも忘れ去ろうとするなんて、およそ文明人のすることではない。
僕自身、ここ数日とくにやることもないので、日々猛省中である。つい先日も、このアルバムを「ブライン・ウィルソンがピアノに触ってる、というだけで聴かねば!と飛びつくようなマニア向けの代物だろう」と勝手に判断して聴かずにいたことを反省していたところである。
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とくにすべきこともない冬の百姓は概ね金もないので、日がな焼酎のお湯わりを飲み、レコードを聴きながら過ごすしかない。そんなある日、辺りが暗くなり、頭もぼんやりしだした黄昏時にスピーカーから聴こえてきたこのレコードが、不意にとても沁みたのだ。
購入後しばらくほったらかしにしておいた本作で披露されるのは、“God Only Knows”や、“Don't Worry Baby”、“California Girls”、“I Just Wasn't Made for These Times”など(挙げればきりがないが)、ブライン・ウィルソンのペンによる世紀の名曲たちである。その魅力は、悪魔に魂を売るか、神様に愛されるか、あるいは狂ってしまうか--いずれかの状態でなければ思いつかないであろう旋律や和声、そしてオーケストラやコーラスなどの緻密な“アレンジ”にある。と、思っていた。
しかし、ブライン・ウィルソンの10本の指で奏でられる、楽曲の構造がむき出しになったこの作品を聴けばわかる。神の存在を示すかのような清らかなホルンの旋律や、主旋律を追いかけるコーラスパート、まるで18〜19世紀西洋音楽のような厳かなコーダなどはすべて、後からアレンジされたものなのではなく、そもそもブライアンの頭の中で鳴り響いていた音だったのだ、ということを。
“ブライアンの10本の指”と書いたが、“Don't Worry Baby”の輪唱コーラス部分など、実はそうじゃないところもちょこちょこある。ブライアン・ウィルソンが一人でピアノを弾く、というコンセプトに反してでもオーバーダビングを施したのは、おそらくブライアンにとって、それらのパートがどうしても外せない部分だったから。当時のブライアンの脳内空間--ゴシック様式の教会内のようなスピリチュアルな空間--では、それらすべての音が一体となって鳴り響いていたことの何よりの証拠だろう。
前述のように、“Don't Worry Baby”など、『PET SOUNDS』以前の楽曲であっても、実にポリフォニックな魅力に満ちあふれている。現代らしいモノフォニーなビートルズの面々が衝撃を受けたのも無理はない。しかし、ジョージ・マーティン共々つくりあげたハリボテのゴシック建築、あるいは似非ゴシックともいうべき『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、ブライアン一人の脳内で鳴り響いていたサウンドには遠く及ばない貧弱な代物だった。その点、コンテンポラリーアートに接近した『REVOLVER』のほうがよほどクリエイティブで普遍的だし、作品としての強度も高い。
Brian Wilsonの『At My Piano』は、初めてBrian作品を聴く人には向かないかもしれないが、こんな駄文を書き散らしたくなる程度には、素晴らしい作品だ。