Chopin, Schumann, Kazuyoshi Saito and Beatles
自宅から最寄りのコンビニまで、車で約30分。そこはもう他県である。当然、近所にいかしたレコードショップなど皆無だ。が、しかし、昨今はspotifyをはじめとしたありがたいサービスが充実しているので、以前よりも最新動向にキャッチアップできていると思う……。ここまで書いてみて思ったが、僕みたいに最新情報を常に気にしているところが、実は田舎者っぽいのではないか。
という音楽環境であるからかどうかわからないが、少々風変わりな音楽愛好家も少なからずいて、たとえば僕の叔父のように、19世紀の西洋音楽ばかりをひたすら愛聴する変わり者もいたりする。
叔父は、物心ついた僕に、徹底していわゆるクラシック音楽を聴かせたのだという。酒とギャンブルしか興味のないつまらない大人になって欲しくなったのだろう。あるいは、ただ単純に、趣味を同じくする話し相手が欲しかっただけかもしれない。叔父の期待に応えることはできなかったことを申し訳なく思うと同時に、音楽の素晴らしさを教えてくれたことにはただただ感謝をしている。
ある日のこと、叔父とともにレコードに耳を傾けていた僕はホロヴィッツが奏でるあるピアノ曲に魅了された。それがシューマンの「トロイメライ」として親しまれている小曲だ。崇高、とまでは言えないものの、ある種の神秘的な響きに魅せられてしまったのだ。20世紀以降の音楽で、これほどまでに心底感動させてくれる楽曲を、僕はまだ知らない。あの、バカラックやジョージガーシュインの名曲でさえ、この曲を前にしてしまうと霞んでしまうくらいだ。
話はややそれる。
音楽好きではあるものの、村の寄り合いなどで仕方なく同席しなければならないカラオケが苦痛で仕方ない。苦痛だ、と言ってみたところで誰も助けてくれないから、有事の際に歌う曲を用意している。それが、斉藤和義の「歌うたいのバラッド」だ。歌が下手くそでも、譜割がシンプルなので、歌いやすくて何となくそれっぽくなるからだ(そう思っているのは僕だけかもしれないけど)。
何よりメロディが実にエレガントで滋味深い。あの声で、ややぶっきらぼうに歌われるのでわかりにくいけど、モチーフとなっているのは明らかにショパンの通称「別れの曲」なので、美しいのは当然のこと。あの名曲を下敷きに、あんなバラードにまとめあげた若き斉藤和義には脱帽するほかない。
とは言え、ロマン派のピアノ曲といったら、やっぱりショパンだ。シューマンでは断じてない。当時から今現在に至る知名度や、分かりやすさという意味では、それは当然のこと。しかし、幻想的な美しさに限れば、「トロイメライ」は、ショパンのどんな名曲をも凌駕する楽曲だと個人的には思っている。
シューマンの「トロイメライ」と、ショパンの「別れの曲」。両者には、出だしの旋律含め、どこか共通する手触りがある。ちなみに「別れの曲」が1832年ごろ、「トロイメライ」が1838年ごろに作曲されたものらしいから、時系列的にはシューマンが「別れの曲」に触発されたと考えるのが自然だ。もしかするとそのことに多少負い目があったのかもしれず、だからこそ、やや複雑な和声でごまかしたのかもしれない。想像をたくましくすれば、だが。
蛇足になるが、イントロの出だしを含め、The Beatlesの「In My Life」も実にロマン派的な響きをもった楽曲だ。間奏のピアノソロも優雅な、ウェルメイドで美しい曲だが、和声が貧弱だし、ポール・マッカートニーのベースもどこか遠慮気味なので、バロック的な面白さはない。であるにもかかわらず、感情をあえて押し殺し、黄昏時を彷彿とさせるジョン・レノンの歌唱の素晴らしさは、それら欠点を補って余りあるもの。20世紀においては最良の楽曲のひとつだろう。