【死は人生の終末ではない。生涯の完成である】雑談2:あなたは強くあれますか?
はじめましての人は、はじめまして。そうでない人は、こんにちは。どうも、紅茶です。今回は、悲しい話をします。読んでいただけるとありがたいです。少しでも多くの人に伝わると嬉しいです。
今回の言葉は、マルティン・ルターというドイツの神学者、聖職者の言葉です。宗教という観点から見れば、死んでも救われる人生を送りなさいという言葉なのでしょう。しかし、私たち日本人はあまり宗教に強い信念を抱いていません。(もちろん、そうである人もいますが...)私も日本人のそういった部類の人間で、この言葉を解釈するとごく当たり前のことを言っているように感じます。しかし、それでもこの言葉が刺さるのは、この言い換えにあると私は考えています。受験や就職活動、目標などをゴールではなくスタートであるという考え方があるように、ルターも死は「終わり」ではなく、新たな「始まり」であることを伝えているのだと感じます。そう考えると悲しいことも死への悲しさではなく、別れの悲しさになり、前へ向く為の糧になるのかもしれません。ただ、私たち人間はそう強く、前を見て歩ける生物ではありません。私自身、幼い頃に大好きだった祖父を亡くした時は訳も分からないままに泣いていました。「お疲れ様でした」と言えるほど、強くも、大人でもありませんでした。急に愛する人を失った人も、覚悟を持って死んでいった人も、その時に強くあれたでしょうか?
実は、今回このような話をするつもりはありませんでした。なので雑談とさせてもらったのですが、雑談にできるような話なのか、するべきでなかったのかはわかりません。ですが、言わずにはいられませんでした。友人のお父さんが亡くなったと聞いたのです。前々からステージ4のガンだということは知っていました。しかし、ゴールデンウィークがあけて、初日。私は、しばらく戸惑った後、友人を思うと胸が締め付けられました。私ができることはないか、いや今はそっとしておくべきか、でも何かを言ってあげるべきなのか。そんな葛藤の中、結局言えたのはLINEでの「大丈夫?何かできることがあったら言ってよ」の一言でした。なんと無責任な言葉なんでしょうか。けど、私の友人は「ありがとう。いい友達を持った」と言ってくれたのです。
そんなことを言う余裕などないはずなのに。
泣きたいのは友人のはずなのに、目頭が熱くなったのは私の方でした。その時、私は友人の「強さ」を感じました。決して、余裕なわけでも冷たいわけでもなく、ただ強い。電車に揺られながら受け取ったそのメッセージには、感動がありました。正直、友人の今の感情なんて私には理解できません。本当は眠れもしないくらい泣いているかもしれないし、泣き疲れて寝ているのかもしれない。私の言葉に、励まされたのかもわかりません。それでも友人がくれた、「いい友達を持った」という強い言葉は一生忘れないでしょう。ただ私が言えるのは、次会うときは友人の元気な姿が見たい、それだけです。
さて、今回は私ごとの吐露に付き合っていただきありがとうござます。今回ばかりは、ゆっくり紅茶でも飲んで、などとは言えません。ですが、いつか私も読んでくださった方も友人のように強くなれるように、ここで締めたいと思います。
最後に、福岡にいる友人に遠い地からご冥福をお祈りいたします。
はじめましての人も、そうでない人も次回も元気で会えると嬉しいです。それでは。