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私の冒険記 第0章(人生ポートフォリオ②)

もうそろそろ海外逃亡をしてから1年が経つ。まだまだ慣れないことも多いが、まあそれなりには出来ているだろうか。

この卯月というのは、やはり私にとってもかなり区切りの年になる。ので、今回は、わたしが忘れないうちに、なぜ私が海外に行ったのかを記しておこうと思う。


海外に行きたいと、初めて声に出した日のことを覚えている。それは現地校に入学する十ヶ月前と言ったところだっただろうか。その日は家族で食卓を囲い、団欒しながら家族の時間を普段どおりに過ごしていた。だが、わたしが一度、学校の愚痴を零すと、まるでアルコールがひたひたに染みたロープの近くに火を起こしてしまったように燃え移り、会話がものすごい勢いで燃えていった。そして焦げたのだ。そう、つまり喧嘩である。

私は中学受験をし、電車で数十分ほどの私立の中高一貫に入学した。だがしかし、その学校は驚く程に私にとって合わなかったのである。もちろん、私にとって、である。そこの学校は文武両道を学校の目標として掲げており、私のような要領が良くない人間にとっては、かなりしんどい環境だった。言うなら、初期装備が無いままジャングルに放り出され、そこに三年住めと言われようなものである。

ただ全てが最悪だったかと言われたら、意外とそうでも無い。部活は心から好きだったし、意味わからない理不尽で怒られたのもよく分からない努力も、いま考えれば全ていい思い出である。

しかし、その学校を辞め、通信に進学した。というのも、自分より上の人達ばっかり見すぎて、首が痛くなってしまったのである。次は下から全体を見てみたいと思ったのだ。

その学校もまた、不思議なものであった。今まで見たことないような、会わなかっただろう人達に一年で会い尽くした。そのおかげで、自分が誰かわからなくなり、周りに振り回され、躁鬱が大悪化した。この時は月一でメンクリに通い、薬を処方してもらっていた。

そしてその日である。「海外に行きたい!」と親の前で嗚咽混じりに訴えた。親の言い分は、一年くらい遅れていたって大丈夫だから、日本の公立高校に受験し直して入ればいいと言っていたが、私は心底反対した。どうせ島国、日本。どこに行っても結局日本人は日本人で、みんな同じようなものだと言い張った。その時わたしは人間関係で悩み疲れボロボロだった。もうこれ以上自分を傷付けられない、死ぬ前の最後の自分からの助けだったと思う。

留学に行く数日前だろうか。一度だけ、本当に自分を手放してしまおうと思った。だけれど、目の前にもう一回だけ、チャンスがあったのだ。自分を救ってくれて、自分のままでいられる世界に行けるかもしれない片道切符が。だからその時に自分に誓ったのだ。

もし、そこで上手く出来なくて帰ってきたのなら、その時はもう、何処にも自分の居場所は無いのだと。そして全てが終わりになると。

そういう経緯で、卒業するまでは日本に帰らず、
是非とも自分との約束を守ろうと思っている。


あなたを取り巻く環境なら、変えることはできる。そしてそのうち、あなたも変われる、と私は思う。辛くても、辛くてもいいのだと思う。あなたが心の底から抜け出したいのなら、きっと、あなたがそのきっかけを作るのだと思う。負けながらでも、最後に勝てばいい。前向いて。


それでは。おやすみなさい。


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