達磨オヤジの唄~ふきのとう(1981年)
「達磨オヤジの唄」は1981年にふきのとうがリリースした「D.S ダルセーニョ」に収録されている、山木康世さんが作詞・作曲した曲。
ファンを公言しながら恥ずかしいが、私は「ふきのとう」の楽曲の中で、〝飲み込めない〟曲がいくつかあった。
レコード時代は曲をスキップことは難しかったが、カセットテープにダビングするようになると、曲を飛ばすことができるようになり、「次はあの曲か…」と思うと、テープレコーダーやCDプレーヤーの早送りボタンに手が伸びた。「バイバイスーザン」「Uncleあるちゅうの唄」「ほととぎす」「今宵三日月春の暮」「案山子と人と烏」「もう春なんだなあ」「YABO」「Time goes by」「Wedding Bell Holy Night」「輝く朝に 〜ABRAXAS〜」がそうだった。
それぞれの曲に、いやな思い出があるわけもない。初めて聴いたときに違和感を感じたのだと思う。ほぼ〝食わず嫌い〟に等しい。
はじめのうちは「出されたコース料理を自分の好き嫌いで残して帰る」ような後ろめたさを感じていた。
私は街角やラジオ、友だちが貸してくれたレコード等で気に入った曲があったときにアルバムを聴くのが癖だった。こづかいに制限があったので大半は「レンタルレコード.店」で借りていた。なので「広く浅く」ではなく「狭く深く」という音楽人生を今も送っている。それ故に「好きなアーティストの中に、自分が受け入れられない部分があること」に対して気まずさを感じていた。
大学から社会人へ進む間に、邦楽以外の音楽にも目を向けるようになったが、ある日、FMラジオから流れた「Daisy」によって「ふきのとう」を再認識する機会があった。
時代はCDになっていて、私は「ふきのとう」のアルバムを1枚目から12枚目まで〝大人買い〟してカーステレオで聴いていた。
「D.S ダルセーニョ」は、私が大好きな「微笑み」「メロディー」「羊飼いの恋」などが収録されているお気に入りで、「メロディー」の余韻に浸っていた私に「1番線に真駒内行きが到着いたします。白線の内側までお下がり下さい」という聞き慣れた女性のアナウンスが耳に飛び込んできた。
ご存じのように、これは市営札幌地下鉄の南北線という路線で流れる自動ガイダンスだ。学生時代に地下鉄に乗るたびに何度も耳にしたその声と共にアコースティックのイントロが始まった。
オヤジはいつも地下街の 階段の踊り場に
座って達磨を描いている ベレー帽をかぶって…
18歳の時、初めて一人で札幌に出た私は、彼女と札幌駅から大通公園、そして「すすきの」にかけて探検に出かけた。その時に「達磨オヤジ」を探しに地下鉄「すすきの」駅を訪れた。午後3時ころだったと思うが、その時に〝彼〟はおらず、それからしばらくして17:00過ぎに再訪すると、彼がいた。
大好きなアーティストの唄に登場する「達磨オヤジ」を見て私はテンションが上がった。彼は階段の踊り場ではなく、地下街「ポールタウン」と地下鉄「すすきの」駅をつなぐ通路の端にいた。回りには彼が描いた達磨の絵が数点飾っていて、素性が分かりかねる風貌で、声をかけにくい雰囲気を醸し出していたことを覚えている。
カーステレオから流れてくる「達磨オヤジの唄」を、私はスキップすることなく聴きながら、胸が少し熱くなった。「まちの名物 達磨オヤジ ダルマ 達磨オヤジ~」というサビがフェードアウトしていき、ソロピアノの高音がもの悲しく鳴り始めて、私が大好きな「微笑み」が流れ出した。
運転しながら涙が止まらなかった。「微笑み」を単独で聴くより、「達磨オヤジの唄」からの「微笑み」が心を激しく揺らした。そのうち「達磨オヤジの唄」が自然に私の心に入っていった。
それから私は、「達磨オヤジの唄」以外の曲もスキップせずに聴くようになった。
多分、それぞれの曲を最初に聴いたときに感じた違和感は、自分が歌詞やメロディを理解するだけ成長していないことの現れだったと思う。そして、音楽を「自分の心象風景を彩るBGM」としてしか認識しておらず、作者が伝えようとしているメッセージを理解するだけ「心が成長していなかった」のだと今では考えている。
上記に上げた曲の数々は、私が〝最近〟好きになったばかりなので、感動もいまだに新しい。
特に「ほととぎす」は、発表当初になぜ素晴らしさに気づかなかったのかと、汗顔の至りだ……
「達磨オヤジ」は、その後人知れずに姿を消していた。私は「すすきの」に赴くたびに、姿を目で追ったが見かけることはなかった。
それから40年の歳月が過ぎ、郷里に帰省した私は、地元のスーパーに行った。
私の両親は53年間、地元の人のために飲食店を続けている。そのための1回の買い物は1万円を優に超えるのだ。何度も「もうやめたら」と投げかけるのだが、一向に応じる気配がない..。彼らのすねをかじり続けたせめてもの罪滅ぼしと、私は帰省するたびに買い物に付き添うようにしていた。
買い物に前後して、私はいつも両親をドライブに連れ出した。
地元で50年間、根を張ってきた彼らは、地元のまちの歴史をよく覚えている。来てくれるお客さんの中には、昔を懐かしみたい人がたまに来訪し、20万人以上いたまちの全盛期を振り返り、思い出話に花を咲かせて帰るらしい。両親を連れ出すと「あのとき、あーだった、こーだった」などと彼らの記憶が活性化していくのが分かる。「昨日のことは忘れるが、50年前のことは日付や相手の名前のフルネームまでよどみなく答える」高齢者あるあるだ。
今年に入って帰省したとき、両親が結婚して最初に暮らした地域へ車を車でゆっくりと巡回した。当時の家はとっくに取り壊されていることは知っていたが、当時のご近所さんのうち何人かが存命であることを知り、両親は喜んでいた。
つかの間のドライブを終えて帰宅しようと、仲小路から幹線道路に出る交差点で信号待ちをしていた私は、交差点の反対側の家の窓に、何枚ものダルマ絵を見て驚いた。「達磨会」という筆書きの看板とともに、こちらを窓からにらみつけるように飾られてたダルマ絵は、どれも迫力があった。
一瞬「達磨オヤジ、地元、こっちだったのか!引退してここで続けているのか?」と勘ぐったが、冷静になればどう見ても時制が合わない。
後に地元の人に聞いてみると、ダルマ絵の愛好家が10年以上前から、自主的に倶楽部を結成して社会福祉施設などへ、作品を寄贈する奉仕活動を続けておられるらしい。
まったく関連性がない〝ダルマ〟ではあるが、私は、躍動感ある筆書きで描かれるダルマを見て「まちの名物 達磨オヤジ ~」とDコードメロディを口ずさんでしまった。きっと私くらいものだろうな。