「微笑み」~ふきのとう(1981年)
私の中のビートルズである「ふきのとう」。「好きな曲は?」と聞かれたら真っ先に上げるのは「微笑み」という曲だ。
この曲は、ふきのとうの8枚目のアルバム「D.S.ダルセーニョ」に収録されたが、シングルカットはされていない。
それにもかかわらず40年以上の月日を経て、今なおYoutube上で再生され続けていることが驚異ですらある。再生回数は2024年4月現在103万回。いまなお視聴回数が伸び続けているのが驚き。。。
Youtubeでのコメントを見ていると、大多数が同年代と思われる人たち。それぞれに「懐かしい」だけでなく、昔の恋を思い出しているようなニュアンスを感じる。中に一名、当時(?)の恋人の名前を連呼されておられる方がいらっしゃる。そばにいるなら「分かります。分かりますけどーー」と肩を抱いてあげたい.…
解散時に販売していた記録集によると、デビュー曲の「白い冬」はヒットしたが、その後はヒットチャートを賑わすこともなく、彼らは少し焦っていたらしい。北海道や冬路線から脱却しようと「南風の頃」「初夏」をリリースしたり、「雨降り道玄坂」を発表しても、ヒットする機会には恵まれなかった。
「白い冬」は大学時代の先輩だった山木康世さんの作詞、作曲した曲で、山木さんは自分が作った曲を、メインボーカルだった細坪基佳さんが唄い、自分はハーモニーに徹するというのが「ふきのとう」というグループの基本スタイルだと、解散するまで思っていた節がある。
売れない間には、両者の間に多少なりとの摩擦があり、1977年には細坪さんが作詞・作曲してみずからが唄う(しかも山木さんのハモなし)「美しく燃えて」もシングルカットされたが、こちらもヒットしなかった。
競争の激しい音楽業界で「一発屋」という人たちは多く存在するが、ふきのとうはこの間にシングル7枚、アルバム4枚をリリースした。勝手な推測だが「スマッシュヒットしないだけで、活動を続けられるだけのセールスは維持できていた」のだと思う。別記事でも触れたが、業界内の知名度が高くないにもかかわらずコンサートチケットは完売するという、ふきのとうは「業界7不思議」と言われていたらしい。
その苦労を神様が見ていたのか、1977年に発表した「風来坊」が大ヒット。1979年発表の「春雷」もヒットしてテレビへ登場する機会も増えた。
多分、山木さん、坪さんの間にもヒットが生まれたことで多少安堵したのだろう。1981年に発売された「D.S.ダルセーニョ」について、音楽雑誌で山木さんは「このアルバムのために作った曲はない。これまでのライブで演奏してきた曲を収録した」と話していた。聴いてみると肩肘の張らない、2人らしさが溢れたアルバムに仕上がっている。
このアルバムの前に(記憶は不正確だが)細坪さんが結婚したという情報が、北海道の片隅にいた私の耳にも届いていた。10代から20代にかけての胸がときめく出会い(恋)から、互いを慈しみ合いながら人生をともにする愛をテーマに山木さんが「メロディ」という曲を、細坪さんが「微笑み」を作ったのだと思っている。
「メロディ」は、真夏の陽が降り注ぐ札幌を思い起こさせる曲だと思う。中には仙台を思い浮かべる人も多いみたい。私も2度ほど仙台を訪れたことがある。「杜の都」の名の通り、緑豊かなまちであることは十分承知しているつもりだが、私は「青葉城恋唄」の方が街並みにふさわしいと思います。
「微笑み」は、真冬の北海道で暖炉かペチカを前に寄り添う2人が思い浮かぶ。
「上手に生きていけないならば せめてつまずかないように」
「激しく燃えるもののもろさを 哀しさを知っているから」
「どうして歌うことがあるのだろう 君の思い出の唄を」
「切ないほどに揺れる心を 今は信じていればいい」。
歌詞と調べから「きみ」への深い愛情がにじみ出ているように私には思える。
近藤啓太郎という小説家の作品に、同じ名前の「微笑み」というものがある。がんに冒された妻との最後までを記した私小説で、妻に対する愛はふきのとうの「微笑み」にも共通する。
Youtubeのコメントには、当時の恋人に感じていた愛と「微笑み」の唄がシンクロして懐かしんでいる人が少なからずいる。そのうちの何人かは「数十年連れ添った妻(夫)との想い出の曲です」と。微笑ましくも、うらやましくもある。