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【小説】認知の迷宮

「お前、本気で変わりたいと思ってる?」

そう言われたとき、答えに詰まった。

——変わりたいか。

職場のカウンターに肘をついて、目の前のモニターに映る数字をぼんやりと眺めながら、俺は考えた。不動産業界に身を置いて七年目、年収は悪くない。だが、何かを積み上げたという実感はない。日々、期待した通りに動かない客や同僚に苛立ち、飲み屋では隣の客の愚痴に相槌を打つだけの時間が過ぎる。

「いや、思ってるよ」

それが俺の答えだったが、同僚の宮本は鼻で笑った。

「変わる気のない人間が変わりたいとか言うなよ。お前、いつも結論が早すぎるんだよ」

「早すぎる?」

「そう。『こいつはダメだ』『やっぱり俺には無理だ』『期待してもしょうがない』って、いちいち白黒つけすぎるんだよ。人間、そんな単純なもんじゃないぞ」

俺は黙った。宮本の言うことは正しい。俺は勝手に期待し、思い通りにいかないと見限る。仕事もプライベートも、どこかで「やるだけ無駄だ」と決めつけていた。

「とりあえず、これ行ってみない?」

宮本がスマホを見せる。「認知行動療法の実践講座」とある。

「認知行動療法って……あれか、思考のクセを矯正するやつ?」

「そう。まあ試しに受けてみようぜ。お前みたいなやつにはちょうどいいだろ」

俺は、どうせ何も変わらないだろうと思いながら、「わかった」と答えた。

——期待なんかしない。

それが、俺の唯一の自己防衛だった。


講座の会場は、オフィスビルの一室だった。淡いクリーム色の壁にホワイトボード、窓からは鈍色の街が見える。

講師の田島は穏やかな口調で語った。

「認知行動療法では、『自動思考』に気づくことが大切です。我々は知らず知らずのうちに偏った考え方をしてしまいます」

テキストには「認知の歪み」のリストが並んでいる。「全か無か思考」「過度の一般化」「自己関連付け」。俺の思考パターンそのものだった。

「大事なのは、それを書き出し、別の視点を考えることです」

田島はそう言うが、実践するのは難しかった。書くまではできる。しかし、「新しい視点」を考えようとすると、脳が空白になる。

一方、宮本は違った。スラスラと「別の視点」を書いている。

「お前、うまくできるんだな」

「まあな。でも、これって結局、訓練だろ」

訓練。確かにそうなのかもしれない。だが、訓練で変わるなら、なぜこの講師はまるで他人事のような表情をしている? なぜ、長年教えているはずの彼が「実践が難しい」と呟いたのか?

この療法に、どれほどの効力がある?

俺は疑念を抱きながら、それでも書き続けた。


数年後、俺は「認知行動療法セミナーの講師」になっていた。

——なぜ、こうなった?

スーツを着て、マイクを持ち、ホワイトボードに「自動思考」「別の視点」と書く。聴衆は熱心にメモを取り、時折うなずく。しかし、その視線の先にいる俺自身は、もうこれを信じていない。

認知行動療法は万能ではない。

俺はそれを知ってしまった。

人間の思考回路は簡単には変わらない。どれだけ「別の視点」を考えたところで、根底にある価値観や感情は頑強に残る。俺は講師として「変わることの大切さ」を語りながら、内心では「変われる人間なんてごく一部だ」と思っている。

受講者たちは必死だ。俺と同じように、人生を好転させたいと願っている。しかし、俺はもう彼らを「救う」つもりはない。ただ、決められた講義をこなし、報酬を得るだけ。

ある日、セミナーの後、宮本と再会した。

「お前、変わったな」

「まあな」

「でも、なんか……詐欺師みたいだよ」

俺は笑った。

「人間は、変わるってことを信じたがるんだよ」

そう言いながら、俺は心の奥で問い続けていた。

——俺は、本当に変われたのか?

その答えは、まだ出ていない。


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