投げ出すと踏ん張るの境目
日常的に気持ちの中で投げ出してしまう瞬間がある
一般的な見た目では分からない
と言うのは、恐らく他者から見れば、普通に家事や育児に奔走している1人の父親にしか見えないからだ
しかし、本人の精神は違う
子供の声に耳を貸さず、妻の意見に対して穿った前提を持つ
いや、言い換えれば自分が見る世界全てに対して、穿った視点を持ち、自分にとって都合の悪い設定になっていると思い込む
この価値観になった時は、もう投げ出してしまった後だ
重要なのは、この投げ出す行為になるかならないかの境目で踏ん張ること
私のケースだと、投げ出すきっかけとなるのが他者からのアクションだ
指摘や注意、子供からの意味不明な癇癪等、きっかけとなるケースが多い
しかし、それ以外に通常のやり取りでも投げ出す瞬間は発生する
これは何なのか?
きっと事象は違えど、中身は同じはずである
投げ出す=逃げると捉えると、自分にとっての課題が眠っているのが分かる
踏ん張る=課題と向き合うということだ
正味の話、これは面倒でしんどくて、したくない
しかし、この精神面の筋トレのようなものが自分を成長させている
視野が広がり、私の時間がない世界に生きたい目標に近づけているように思う
具体的例を挙げる
子供が話を聞いてよ!と私に叫ぶ
この時、すでに私の心は怒りになっている
(怒りのロジックについては別記事で)
投げ出すバージョン:「うるさい!お前が〇〇するからやろが!」みたいなニュアンスで罵倒する(よくある親の怒り方だと思う)
踏ん張るバージョン:「どうした?何があった?ちゃんと聞かせて」みたいなニュアンスでフラットに話を聞く
踏ん張るバージョン中も気持ちとしてはイライラMAXだ
しかし、これが終わった後、何か分からぬ充実感がある
投げ出すバージョンは、実は私が幼少期に体験した親からの反応である
踏ん張らずに、そのまま自然体(本当は不自然なのだが)で対応すれば、おじいちゃんと同じように孫に罵倒することになる
私はこの事象こそ「呪い」と思っている
呪いは私の代で断ち切りたい
自分の孫が、自分の息子や娘から同じくそのような態度で子育てされるのは嫌だ
苦しいが、苦しくて当然である
踏ん張ろう