雑談⑫(note休止前に言っておきたいこと)

※この文章には自殺行為・自傷行為についての描写があります。
  読む際には十分にご注意ください。また、もしお悩みを相談したい方は
  相談窓口や信頼の置ける知人の方にご相談ください。

こんにちは、蜂です。

私の高校は8月21日から夏休みが明け、二学期が始まります。
珍しくはないかもしれませんが、小中学校では8月31日まで夏季休暇があった身からすると、少し終わるのが早く感じます。
実際の日数も義務教育中と比べ短くなっていますし、進学校みたいなところなので、学習に力を注ぐために授業日数を増やしているのだと思います。正直なところ、ちょっと苦しいなと思います。

私の雑談を読んでくださった経験がある方はご存じかもしれませんが、私は酷くネガティヴな人間です。いつも頭の中で何かを考え続けるだけで実行はしない、行動に移したとしても余計なお世話で相手を傷つける、誰かと話していても自分の言葉がうまく声に出ない。そうやって自分をずたずたに引き裂いて誰かをぐちゃぐちゃに壊してしまうような人間です。

先日、『死にたいごっこ』という詩を投稿しました。ごっこ、というのは語弊があるかもしれませんが、突然胸中に浮かび上がった言葉が「死にたいごっこ」でした。私は夏が終わる頃になると、ベランダから飛び降りたり踏切に飛び込んだりする感覚がことあるごとにせり上がってきます。ある時期には毎日死ぬことについて考え続けたためか、もはや死ぬ気すら失せてしまいました。特別な存在でもなければ、平凡に生きられるわけでもなさそうな世界の中で、生きるか死ぬかの二元論に縛られていました。「死にたいごっこ」は、おそらく死ぬことを想いながら行動には移さない私のことを形容したいと考えたとき、どこからともなく現れた造語なんだと思います。既にこの世界の誰かが使われていて語義も別のものを考えていらっしゃるかもしれませんが、私の中では上記のように意味づけされています。

夏が終わることは、私にとって、ある意味では(言い方が悪いですし、本当はそんなことなど絶対にありえませんが)「大義名分」みたいなものでした。壊れかけた精神を解き放ちたい、でもその機会を自分では決めきれない、夏の終わりなら、区切りが良い。あくまで自分の中ではそういうふうに考えていたというだけです。夏という季節に死の要素は決してありませんし、ましてや夏が自殺の季節だと言いたいわけでもありません。また、私は決して自殺行為・自傷行為を推奨しません。ここまで話してきた内容は、あくまで自分の回顧録としてのものです。いずれにせよ、自分で自分を殴ったり、からだを壁に打ち付けたりするなど、自分を痛めつけ続けたのは確かなことです。鼓膜を破りかけたこともありました(現在のところ聴力に目立った問題はありません)。死にたかったからなのか、今は生きているということを確かめたかったのか、それも分かりません。ただ、夏が来ると死ぬことを考えるようになるのは、そうでもしとかないと気付かぬうちに死んでいるかもしれないからだと考えています。それは何処か確からしさがあります。

死にたいと思わなくなる日は来ないと思いますし、どれだけ大好きなものが近くにあっても誰かが必要としてくれていても、死にたいという感情を掻き消してくれるわけではないし、そういったことを望んでいるわけでもありません。生きることだけが正義だとは思いませんし、死ぬことを選択することが悪だとも思いません。きっとそんな簡単に片付けられることではないし、たかだか二十年以下の人生で偉そうなこと言ってんじゃねえよって思われるかもしれないし、演技なのではないかと言われてもしょうがありません。自分の中の死にたいという感情を説明することは言葉の限りを尽くしても難しいし、できるわけがありません。でも何か書かなければ消えてしまいそうだから、後悔が残ってしまいそうだから、何となくnoteに書きなぐってみました。一応これで活動はおしまいです。言いたいことはまだたくさんありますが時間がなさそうなので、ここまでにしておきます。

さようなら、そして読んでくださりありがとうございました。
必ずまたお会いしてお話しましょう。


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