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不妊治療|子どもを生み育てるということ


自分は母親になれるだろうか


私は子どもが好きだ。
小さな身体で、全力で生きる姿が好きだ。

子どもの頃は、いずれ大人になり、結婚すれば誰しもお母さんになれるものだと思っていた。

だけど実際のところはなかなか授かることができず、現在は不妊治療専門のクリニックに通っている。

陽性!妊娠した!
その結果が出ない限り、ゼロもしくはマイナスの感情しか生まれない、暗いトンネルのような不妊治療に辟易しているところだ。


『もしも子どもを授かり出産できたならば、これ以上の幸せはない』

・・・と、不妊治療を始めるまでは、そう思っていた。

正直なところ、子どもを育てることについては不安な気持ちが強く、自分のような者が誰かを育てることなんてできるのだろうかと疑問に思う。

母親になる覚悟が足りないのは重々承知の上で、このnoteを書いている。


子どもを育てるということ

不妊期間が徐々に長くなるにつれ、
「私は本当に子どもが欲しいのだろうか?」
と考えることが増えた。

それは出産後に訪れるであろう不安が大きく影響していると思う。

子ども中心の生活になり、慢性的な睡眠不足、想像以上の大変さで、こんなはずじゃなかったと思ってしまったら?
自ら望んで妊娠して生んでおきながら、子どもを可愛いと思えなかったら?
もしも病気や障害をもって生まれてきたら、母親の役目が私に務まるのだろうか?
両親が私を育ててくれたように、何不自由なく愛情を注いで育てられるのか?幸せにしてあげられるのか?


妊娠を望んでいるにも関わらず、不妊期間を長く経験するにつれ、今考えたところでどうしようもない不安に襲われる。

そう考えてしまうのは、「良いお母さん(お父さん)だった」とご近所から言われるような人でも実の子を殺して無理心中を図ったり、虐待や育児放棄をしたというニュースを度々目にするからだ。

自分が子どもを望む前は、こういったニュースを見ると「虐待するくらいなら、生まなければ良かったのに」とか「子どもを巻き添えにするなんてひどい」などと思っていた。

だけど今は、全く違う。

自分も『あちら側』の人間になりうる可能性があることが恐ろしくて堪らないのだ。



自分勝手なエゴで妊娠を望んだ挙句、生まれてきた子を幸せにしてあげられなかったとしたら?

自由な時間がなく、自分の思い通りにならない時、子どもを責めずに正気を保っていられるだろうか?

生まれてきた子に重い病気や障害があろうと、母親はその子を育てなければならない。たとえ子どもが非行や犯罪を犯したとしても、その子の母親の役目を放棄することはできない。

子どもを育てるということは、何があろうと、『母親』という与えられた役目を生涯全うすることなのかもしれない。

果たして、その覚悟はあるのか?

子を生み、育てることの責任の重大さを噛みしめる。


私は心から子どもを望んでいるのか


授かりたいと考える間もなく、自然と子どもができるのが世間では一般的かもしれない。

周囲の人たちが次々に妊娠する中、私はなかなか結果がでないことに焦っていた。年齢のことを考えると1歳でも早い方が妊娠しやすいだろうと思い、昨年通院を始めた。
また、両親からの静かな期待や、彼らに親孝行したいという気持ちも少なからずあった。

最短で授かるためにせっせと婦人科へ通い、タイミング指導や排卵誘発剤の服薬、そして人工授精を続けてきた。あと数回人工授精を続けても結果が出なければ、体外受精も検討している。

無事授かることができれば、夫や両親の喜ぶ顔が見られて私はもちろん嬉しいし、達成感でいっぱいになるだろう。みんな幸せになれる。



不妊治療によって発生する痛みや副作用を我慢していると、どうしてそこまでして子どもがほしいのだろうかと、幾度となく考えている自分がいる。

周囲の妊婦や、出産した人たちの影響を受けているだけではないか?
不妊治療をすることで、自分は子どもを生める身体であると証明したいのではないか?
そもそも、両親を喜ばせるために子どもを生みたいのではないか?

ふと冷静に、そんなことを考える。

不妊治療を続けていると、いつしか『妊娠すること』がゴールになってしまいそうな感覚に陥ってしまう。

妊娠はゴールではなく、スタートだ。
その感覚だけは忘れてはならないと思っている。

これからさらに続くかもしれない不妊期間、そしてその後の妊娠期間、『子どもを生むこと、育てること』についてじっくり考えたい。

今はまだ子どもを持つことについて完全な覚悟はできていないし、答えは出ていないけれど、そうやって考えることで、少しずつ母親になっていくのかもしれない。


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