社史はなんのために作るのだろう? 「会社物語」への取り組みから得られる3つの成果
「社史」から「会社物語」へ
この10年ぐらい出版社や企業、経営者からの依頼を受けて、会社の歴史(社史)を書く仕事をしています。その多くは、周年事業に合わせて集まったプロジェクトチームとともに、資料を紐解き、社歴の長い社員やOBにヒアリングをして、原稿を作成するものです。
ただ、プロジェクトに選ばれた社員の中には、通常の業務に加えて、慣れない編纂業務が増えることに負担を感じてる方もいるように思えます。
私は社史編纂メンバーに選ばれた方はとてもラッキーだとお伝えしています。なぜなら、社史編纂に携わると、「あなたの仕事が生まれた必然を知ることができ、雲の上の人だと思っていたカリスマ経営者を等身大で捉えられ、そして、その組織で働くことや自分の仕事を誇りに思える」からです。
「〜〜史」というと事実を羅列した小難しい歴史の教科書を思い浮かべてしまうかもしれません。そこで私は社史を「会社物語」と呼んでいます。史実にはそのひとつひとつに物語があり、社史は物語の集合体であると考えるとちょっとワクワクしてきませんか。
それに英語の"history"と"story"は語源が同じようですから、社史(Company History)と会社物語(Company Story)は同義語と言えるのです。
この記事では、私が編纂に携わっている学校法人佐野学園(神田外語グループ)の歴史を綴るインタビュー・プロジェクト「いしずえを築く〜神田外語とともに歩んできた人々の証言」を中心に具体例を紹介しながら、会社物語を編纂する意味を3つのキーワードで整理してみます。(文中、敬称略)
「必然」を知る
佐野学園は、外国語教育を主体とした「神田外語学院」「神田外語大学」、そして国際研修施設「ブリティッシュヒルズ」などを経営する学校法人です。60年以上にわたり、実践的な外国語教育をリードしてきた教育機関です。
その創立は1957(昭和32)年。太平洋戦争の敗戦からちょうど12年後のことでした。
戦時中、創業者の佐野公一・きく枝夫妻は飛行機部品工場を営んでいましたが、終戦後の東京・上野で金物屋を始めました。佐野夫妻の長男で、当時小学生だった佐野隆治(後に神田外語グループの理事長、会長を歴任)はこう回想します。
焼け野原となった土地を掘り起こし、土地をならし、畑を耕すクワとスキ、そして、日々の食事を煮炊きする鍋と釜。佐野夫妻は人々が切実に求めるモノを見つけ、提供し商売を成功させていったのです。
その後、佐野夫妻は貿易業を始めました。そこで佐野きく枝はあることに気づきます。
こういった問題意識を持ってから6年後の1957(昭和32)年に佐野夫妻は東京・神田に小さな英会話学校を設立します。その学校は、日本最大の外国語専門学校、神田外語学院へと発展していきます。神田外語学院は、仕事が終わってからも通える神田という立地にこだわり、仕事で使える実学としての英語教育を徹底的に追求していくのです。
クワとスキ、鍋と釜、英語教育。どれも人々が生きていくために切実に求めるものであり、佐野夫妻はそう実感したからこそ、ただ愚直に、それらを提供することへ挑戦したのです。学校というと高尚な理念から生まれたと思いがちですが、佐野学園の場合はもっと実際的な生きるための「必然性」から生まれていたのです。
このように会社物語を綴ることは、会社や事業がなぜ生まれたか、その「必然」を知ることができるのです。その必然を知ることは、現在、そして未来の事業を描く上での指針にもなると私は考えています。
カリスマ経営者を「等身大"」で捉える
佐野公一・きく枝夫妻の長男として1934(昭和9)年に生まれた佐野隆治は、30代で両親の経営する学校経営に参画し、神田外語学院の発展を牽引していきます。その後の神田外語大学の開学やブリティッシュヒルズの創業の立役者も佐野隆治でした。
しかし、そんな敏腕経営者だった佐野隆治は、決して順風満帆な経歴を歩んできたわけではありません。
慶應大学在学時から父が発案した喫茶店を切り盛りし、友人とパーティを主催してパーティ券を売りさばき、外車を販売するなどビジネスに積極的な学生だった佐野隆治は、大学を卒業せずに家を出ました。そこからの数年間、29歳になるまで、彼はいくつかの職を経験します。
雨の中、ずぶ濡れになりながら会社を回った税金対策新聞の営業。「お前らには一生かかっても買えない」と、2代目社長に見下されながら行った住宅のセールス。そして、スクーターで工事現場を回る建材の「御用聞き」。
その後、建材販売の会社で出会った先輩と、建築現場にモノを売って届ける会社を立ち上げました。
親元を離れた佐野隆治はことごとく仕事で失敗していきました。そのエピソードから想像できるのは、何者にもなっておらず、悔しさを噛み締めながら、孤軍奮闘する20代の若者の姿です。後に何千人もの学生が学ぶ専門学校や大学を経営するカリスマ経営者からは想像できない、等身大の佐野隆治がそこにいたのです。
私たちは、カリスマ経営者を前にして、自分勝手に人物を解釈してしまうことが多々あります。「あの人は経済的に恵まれていたから」「生まれ持った素質があったから」「苦労せずに親の跡を継いだ」など。
でも、勇気を持って本人に問いかけてみれば、カリスマ経営者にも想像もしなかったような失敗の物語があることを私たちは知ることができるのです。
経営者を等身大で捉える。それは、社員が経営者への理解を深め、親近感を覚えるとともに、社員が自身を鼓舞する機会になると私は思うのです。
会社物語は「誇り」の源泉になる
最後のキーワードは「誇り」です。
別の会社のプロジェクトでのことです。
数年前、ある会社で会長職にあったカリスマ経営者が亡くなりました。その会社では周年事業として社史の編纂を計画していたのですが、変更して「会長史」をまとめることにしました。
約10名ほどの社員が集められたのですが、その中に、明らかにプロジェクトに選ばれたことを残念がっている営業職の方がいました。聞いてみると、「歴史は大の苦手で、このプロジェクトで自分ができることがまったく想像できない」というのです。
私はアドバイザーとして、会長の歩んだ歴史を整理する作業に入りました。会長が亡くなる前、社の幹部の方から依頼を受けて、会社の歴史をまとめるためのインタビューを会長にしていました。ですから、社員の方も知らない会社のエピソードを会長から直接、お聞きしていたのです。
プロジェクトでは、年表を紐解きながら、インタビューで知った事実を当てはめて、それまで社内で語られることのなかった、会長の物語をメンバーとともに紡いでいきました。合言葉は「会長の人生を社員が語れる紙芝居にしよう!」でした。最終的にはスライド10数枚のプレゼンにまとめることを目指していきました。
社内での発表会を間近に控え、作業も佳境に入ってきた時期のことでした。定例の打ち合わせを終えて、会社の外に出ると雨が降っていました。駐車場には「歴史が苦手な」営業職の方がいて、「山口さん、隣の駅の営業所に戻るから車で送りますよ」と言ってくれました。思えば、彼と2人きりで話すのは初めてのこと。ほんの10分ぐらいの時間でしたが、彼はこんな話をしてくれました。
「最近、亡くなった会長のことをまとめているでしょ。会長を知っているお客さんのところに行くと、すごいく話が盛り上がるんですよ。『当時の会長は、こうだったみたいですよ』と言うと、『そうそう、あの時は私も若くてね』と返してくれるんです。お客さんの話も今まで以上に理解できるようになった。会長史のおかげで、お客さんとも近くなれたような気がするんですよ」
そう語る彼の顔は、とても誇らしげで、うれしそうでした。
会社と経営者の歴史を知り、自分の言葉で語ることは、単に歴史を残すだけでなく、今を生きる者が仕事をするうえでリアルに役立つことである。
私が、そう確信した瞬間でした。
なぜ、役立つのでしょうか? それはきっと、歴史を紡ぐ作業を通じて、「誇り」が生まれるからだと私は思います。
まず、事業を立ち上げた創業者がいた。その志に共感して、集まった同志たちがいた。創業者の思いと一つひとつの事業の成果が年輪のように重なり、次の経営者へとバトンが渡されていく。
会社物語を紡ぐ担当社員は気づくのです。自分自身も、その物語の一部であることを。
それほど積極的に志望して入社した会社ではなかったのかもしれません。偶然、ご縁があって入った会社かもしれません。
でも、会社物語の流れをつかみ、その流れに自分が引き寄せられたことを実感すると、点と点がつながり、会社物語が自分ごとになっていく。そして、自分自身が、その物語の一部であることを誇りに思うのです。
ぜひ、会社物語をみなさんの会社や事業の成長に役立ててみてください。
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