シャンタル・アケルマン「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」
6年前に夫を失い、16歳になる息子と二人暮らしをしている女性の3日間を3時間21分かけて描いた映画。劇伴は一切ないが、延々と反復して続けられる家事の音が、いつの間にか一つのリズムを作り、長尺の映画の間延びを防いでいる。映画の大半を家(買い物に出る時は外)を動き回る主婦を定点的に映すカットが占めるが、主婦が部屋を出る時に部屋の電灯を消す音、そして一気に灯りを失う画面全体が、映画にハッとさせるような抑揚をもたらしている。固定されたカメラによる定点撮影の連続は、ドキュメンタリーのような理知的な眼差しを映画に付与している。
定点的な撮影=ドキュメンタリーというのも、安易な発想のように思えるし、それが全ての映画に美点をもたらすものではないだろう。しかし、この映画に関しては、人物・部屋・動かされる日用品・主人公の周りを通り過ぎる人々、その全てが同じ価値/意味を持つものとして観客に投げ出されることが不可欠である。監督が描きたいのは一人の女性と、彼女を包み込む生活の"全て"であり、何かが強調されてしまうことはこの映画にとって大きな欺瞞となってしまう。例えば些細なズームアップですら、それを許せばこれまでのストイックな蓄積が一気に無に帰ってしまうような、異様な緊張感が映画を包んでいる。
作品の展開は起承転結を徹底的に排し、1日目・2日目・3日目が淡々と描かれるのみ。しかし禁欲的な作品の反復性によって、3日間の家事労働のなかで少しづつ顕れる些細な綻びを異化し、そこに大きな意味を持たせることが達成されている。基本的にルーティンワークのように繰り返される家事だからこそ、昨日そこに無かったモノ、昨日あったが今日無くなってしまったモノがもたらす不穏さが、そこに在るものとして投げ出される。
また、この映画は一般的な家事労働だけではなく、女性が生活費を稼ぐために息子のいない日中に「客」をとっているという事実が(言うまでもなく)非常に重要である。息子はその事実を知ってか知らずか、眠りにつく前に「もし自分が女だったら、好きでもない人と寝るのは死んでも嫌だ」と言った旨の発言をする。それに対する女性の返事は「人と寝ることなんて些細なことよ」といったものである。しかしながら、金銭のために自身の身を売るこの行為は、確実に女性の精神を蝕んでいく。
観客はその不穏さを、分かりやすい解消を望まずに、抱えつづけなければならない。この映画はブルースである。反復されるコード進行が少しずつズレて、一気に解決(または破滅)に向かうような快感はこの映画を傑作と言い切ることに一切の怯みを感じさせない、とてつもなく大きなものだった。
蛇足としての追記
・ベビーシッターなのに赤ん坊に泣かれすぎてるシーン、不憫だがめちゃくちゃ笑ってしまった。
・多分この家にはボウルがあと2つくらいいると思う。流石に机の上に直接生肉はアカン。息子が可哀想や。
・コートのボタン一個取れて、同じデザインのボタン探してる時に「全部付け替えた方が早い」みたいなこと言ってくる店員さん、言ってることは正しいが、人間としてはあまり正しくない。
・玄関先でマジでどうでもいい話してくるご近所さんが去った後、ドア閉めるスピード速すぎる。
・息子が母親にあんなに性行為の話はしたらアカン。何も知らないフリをしてあげなさい。
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