エドワード・ヤンの恋愛時代
エドワード・ヤンの長編5作目。『牯嶺街少年殺人事件』の次作にあたる。序盤は前作との作風変化に面食らったが、中盤以降で開示されていく作品のテーマは根本的に前作以前や以後と通底している。『牯嶺街少年殺人事件』と『ヤンヤン 夏の想い出』を繋ぐ結節点としてこの作品を捉えることで、エドワード・ヤンという作家をより深く理解できるのではと思えた。
牯嶺街少年殺人事件が、一人の少年が凶行に至るまでを描いた闇の青春群像劇であるとするならば、今作は街の若者たちの恋愛を描いた光の青春群像劇で、役者の立ち回り的にもコメディ要素が強い部分(今作でいうとアキンやバーディが登場する場面のドタバタ感がそれに相当する)が沢山あるものの、そこに至るまでの会話のすれ違いや、決定的な分かり合えてなさ、みたいなものの蓄積がヒリヒリと胸にきてしまって「全然笑えないわコレ…だってこれ、俺の話でもあるんだもの…」みたいな状態になってしまった。
「他にも色々考えなきゃいけないことがある」という理由で、目の前の人の会話を上の空で流してしまっている自分。その「色々考えなきゃいけないこと」というのは、目の前の人の言葉より大切なのか?あまりにも膨大な情報処理に迫られる現代の生活は、目の前の物事や人々を見つめる機会を失わせているのではないか?目の前からその人がいなくなってから、あの言葉の意味は…みたいなことを考えている、そんな私たちの滑稽さが産んでいる様々なズレと、そのズレを乗り越えていこうとする我々自身の運動を、この映画は捉えたかったんじゃないか、などと思うたりした。
本作の終盤において、エドワード・ヤン自身が最も投影されているであろう小説家が、タクシーとの衝突の末に悟りを開いたように独りごちるのは以下のような台詞である。
このような小説家の悟りに対して、本作品におけるパンフレットで濱口竜介は『ヤンヤン 夏の想い出』におけるヤンヤンの「人の背中の写真を撮る」という行動との類似性を指摘している。物事には常に、自分には見えていない一面があるという事実を不幸として捉えるのではなく、幸福として捉えること。本作品を通してエドワード・ヤンが、このような結論に辿り着く様が、登場人物の直向きさと共に描かれていて、とても感動してしまった。
本作品のクライマックスは、主要人物たちの姿が夜明けの窓を背にして、逆光の状態で撮影されている。ここにおいて、観客たちは人物の表情の機微を捉えることができない。しかし二人の人間が身を寄せ合い、互いが抱えた誤解やすれ違いを乗り越えようとしていることは、はっきりと分かる。
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