濱口竜介『悪は存在しない』
観終わった直後は、濱口作品がこれまで表現してきた他者の理解不可能性がゴツっと投げ出されたようなある種の粗さが感じられたが、思い返せば思い返すほど緻密にコントロールされた要素が次々と思い返される不思議な映画だった。
「悪は存在しない」というタイトル(とそれがもたらす挑発)が、映画を観る態度を決定づけているというか、観客はある程度「本当かよ」とか「するだろ普通に」とか思って観るわけで、その時点で映画に対する能動的参入を余儀なくされる巧みさがこの映画にはある。説明会における高橋の態度や、水挽町の住人の衣服と高橋の着るオレンジのダウンが全く調和しない感じを観て直観的に「コイツが悪だな」とか思ったり、その高橋すら芸能会社やコンサルに比べるとまだマシに思える感じが「あれ?」みたいになったり、「悪って何だっけ?」みたいな堂々巡りが不思議な魅力に繋がっている。
冒頭において、薪を作るために巧がチェーンソーを使用している場面。けたたましい音と共に同じ動作が反復され、ある瞬間丸太が崩れるように地面に落ちる。そもそもこの場面から「過剰な行為はバランスの崩壊をもたらす」みたいな象徴性が視覚的に表現されているように思えて、あの結末を見た後に冒頭からの描写を振り返ると全てが不穏な形で捉え直すことができるから不思議だ。そして自分自身がその不穏さに居心地の良さを感じていることに気付かされる。(ハッピーアワーにおける鵜飼くんの「重心」発言だったり、濱口作品は作品に対するある程度の視座を結構ダイレクトに言語化する傾向があり、その大胆不敵さにも毎回驚かされる。)
この映画を観る前に千葉雅也『センスの哲学』を読んでいたので、上映中はかなりその言及を思い返していた。「だるまさんが転んだ」における子供たちの運動の静止を0として、そこに横移動するカメラと不穏な電子音を加えてリズムを生んでいるな、とか、急に丸太や車やわさびに憑依したようなカットが挿入されることでピリッとした刺激がもたらされるなとか、そういうことを思いながら観ると、全てが『センスの哲学』の練習問題みたいに思えてきて面白い。『センスの哲学』でもゴダール的な唐突さに対するカッコ良さの言及があったが、この映画も全編が歪なものの並べ方が特有の美しさに直結している点が不穏でカッコいい。
ラストの解釈については、投げ出すとかではなくて「割とどうでもいいな」と思ったのが正直なところだ。まずあの場面を観て直観的に「巧と花って鹿だったのか?」みたいに思った。しかし花が出血している時点でそれはないか、と思い直し「じゃあ分からんくていいな」と思った。無理にあの場面を〈人間vs自然〉みたいな構図に押し込めることが、ある種の豊かさの抹消に繋がりそうで、即座に思考停止を選んだ。あそこで描かれている問題が「人間としての好き嫌い」みたいな低次元の話ではないことは承知しつつ、自分自身が「高橋という人間を好きになると同時に、同じくらいの深さで嫌いもになっている」ことに気付かされて、それが異様に面白く感じられた。この映画を観る前に黒沢清の『蛇の道』『蜘蛛の瞳』を観ていたことも幸を奏したかもしれない。「意味」って時に全く意味がないことを分かっているので、狼狽えることもなく結末を引き受けられた。
石橋英子の音楽については、ドライブ・マイ・カーから本当に素晴らしいものだと思って聴いている。渋谷で『GIFT』を観た時は、話の筋を画面と字幕で追うことに必死だったので(何という本末転倒か)、今回『悪は存在しない』を観て初めてじっくり音楽に耳を傾けられた。
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