2020年によく聴いた音楽
2020年は結構ロクでもない年で、この記録自体を残すかどうか葛藤してしまった。ただ、今年を思い出したいかどうかは未来の俺が考えることであって、今の俺が傲慢に決定して良いものでもないと思い、ひとまず50枚くらいのアルバムを選んでみた。50枚のアルバムに対してコメントを書く中で、嘘をついたり、格好をつけたり、ありもしない感動を捏造しようとしている自分が心底気持ち悪くなってきて、本当に感動した記憶が残っている16枚の音源に絞った。
16 : Father John Misty『Off-Key in Hamburg』
Father John Mistyが2019年にノイエ・フィルハーモニー管弦楽団と行ったライブの音源化。ライブ盤のクオリティを遥かに超えた音の調和っぷりに驚愕した。Josh Tilmanのシルキーな歌声と、それを支えるバンド隊、楽曲に華を添える管弦楽団の演奏が、互いを一切邪魔せず明瞭に響きあっているさまは驚異的。このアルバムについては、PAの技術を聴いていると言っても過言ではない(誤解のないように記しておくが、Father John Mistyの音楽自体も超好き)。こういうライブ盤はマイク何本立ってるのか考えるだけでも面白い。個人的なハイライトとして、Holy Shitの2分15秒ごろの完璧にコントロールされた混沌と、そこからの大サビの入りを挙げておく。ここで聴衆に一切の音響的破綻を感じさせない技量...!裏方とも言える職人の仕事に痺れたければこのアルバムを聴くしかない。
15 : The 1975『Notes on a Conditional Form』
https://www.udiscovermusic.jp/columns/the-1975-notes-on-a-conditional-form-review-from-world
各メディアから絶賛された前作『A Brief Inquiry into Online Relationships』と比較すると、今作は22曲81分というボリュームから冗長な印象(特にアンビエント調の楽曲の多さ)に各メディアからの批判が集中しているように思う。確かに、遺憾なくカメレオンバンドぶりを発揮していた先行トラック公開時の興奮が、アルバム全体を通した際に間延びしているような印象を受ける。しかしThe 1975によるそのようなアルバムの構成の選択は、確信犯的な挑戦であったはずだ。その意図を限りなく的確に読み取っているだろう論考が、伏見瞬さんによる以下の記事であると思う。
https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/25448
この記事に付け加えるような見解は一切なく、The 1975の魅力と本作品の意図は説明し尽くされているように感じる。“Guys“というバンド賛歌で幕を閉じることが、このアルバムのメランコリックをより美しいものにしている。
14 : BTS『Be』
9月21日にTiny Desk Concertでのライブ映像が公開されてから、僭越ながらどハマりしている。本当にニワカもいいところなのだが、現行ラップシーンを的確に抑えた楽曲の作り方、7人の見せ場が綿密に計算されたパフォーマンスのクオリティの高さに驚かされるばかりである。ライブビューイングのチケットを取り、メンバーの一人(ジミンちゃん)が号泣しながらコロナ禍における苦悩を打ち明けているのを見た時に「飛ぶ鳥を落とす勢いのこんな人たちでも、やっぱり孤独を感じるんだな、素直に泣いてもいいんだな」と、勇気づけられた記憶がある。個人的にはSUGAくんを推しているが、最近彼は肩の怪我を理由にグループを一時離脱し、休養に専念している。最近のパフォーマンスでは、メンバーがSUGAがいた位置を埋めることなく、あえてそのままSUGAのスペースを空けてパフォーマンスしていて、その度におじさんはウルウルしているのであった。
13 : Frank Ocean『Dear April / Cayendo』
2019年10月に発注した7インチ2枚とTシャツが、翌年の10月に届くなんて誰が予測していただろうか...国内の業者がこんなことやってきたら即座にブチギレてたと思うが、「これもアメリカなのか...?」と思っているうちになんと1年間が経過していた。しかし意外とこういった状況を楽しんでいる自分もいることに気づく。そんな日々を送っている間に、太宰治の『葉』という作品の一節が思い浮かぶ。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
いつまでも届かないレコードのおかげで、なんとなく毎日ソワソワしながら生活できたのかもしれないと思うと、ありがたい気持ちもしつつ、Dear April(JUSTICE Remix)を聴いた時の感動と荷物が無事に届いた時の感動がごちゃ混ぜになって、自分が一体何に心を突き動かされているのか分からなくなってしまった。
12 : 冥丁『古風』
http://www.ele-king.net/interviews/007871/
https://tokion.jp/2020/09/26/meitei/
仕事柄、自宅で古文を読む機会が多かったりする。その際、どんな音楽を聴くべきかが一向に分からない。歌詞がある音楽だと意識が曲中の言葉に持っていかれてしまう、だからといってアンビエントは平安時代的な空間の拡がり方とのズレを感じてしまう。一定の空間的拡がりとその先の暗闇を感じさせてくれるような音楽はないものか...と結構長い間思っていた。その時に出会ったのが冥丁だった。
海外の音楽を聴くと、その土地ごとの要素が少なからず溶け込んでいるように感じるけど、日本の音楽は、たとえアーティストが東京に住んでいなくても頭の中で組み立てられた“架空の東京の音楽”ばかりを鳴らしているという気がしてしまうんです。邦楽のルーツをさかのぼるにしても、あくまで“西洋のポップス”の枠組みばかりで、それが時に“日本らしさ”だと考えられてすらいる。たとえば雪をかぶったお地蔵さまとか、田園の水面に月が映る様子とか、僕達の世界に本当は今も実際に現存し続けている本源的な風景だとか記憶の階層には意識が向いていないように思えてしまって。
“LOST JAPANESE MOOD“というコンセプトのもと、忘れられた日本の風景を甦らせるような試みは非常に興味深い。冥丁の音楽は、メロディや音の質というアプローチもさることながら、我々が失い、忘れてしまった体験自体を現前せしめんとする野心に溢れている。
僕が作っている音楽は、『諸行無常』という古くからある概念と親和性があるように思います。物事が生成して、枯れて、なくなっていく。だから、あえて『古き良きものを保存すべし』と言っているつもりもない。それよりも、例えば人気のない山奥の古い家に漂う空気とか、そこに張っている蜘蛛の巣の質感とか、かつて住んでいた人が残していって今は黄ばんでしまった紙の色や匂い、そういったものを音としていかに捉えうるのかを実践するという意識が強いです。
11 : Charles Lloyd『8: Kindred Spirits』
コロナ禍で、さまざまなオンラインライブやZoomで同期した演奏動画を見たが、何かが足りない。演奏者の呼吸、一音一音に込めるニュアンス、それらの変化を瞬時に察知し、おそらく演奏者も意図しないまま楽曲が違う生き物へと変貌していくスリルが、抜け落ちているように思える。 80歳を迎えたサックスの巨人チャールス・ロイドによるライブ盤は、音楽という営みの変幻自在さと興奮を私たちに思い起こさせてくれる。Kindred Spiritsはジェラルド・クレイトン、ジュリアン・ラージ、ルーベン・ロジャース、エリック・ハーランドという錚々たる面々で構成されている。中でもジュリアン・ラージと ジェラルド・クレイトンはこのカルテットに新しい命を吹き込んでいる。
10 : Adrianne Lenker『Songs and Instrumentals』
https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/26813?page=2
http://turntokyo.com/features/adrianne-lenker/
Big Thiefのフロントマン、エイドリアン・レンカーのソロ作。本作はウエスタン・マサチューセッツの山中にある森に囲まれたワンルーム・キャビンで録音されており、音源の中にも鳥の声や風によって気が揺れる音、鳥の声などの環境音もそのまま録音されている。Jeff Tweedyのソロ作とリリース日が近かったこともあり、互いの作品の音の良さから録音の手法への関心が引き立てられた。本作は『Songs』と『Instrumentals』という二部構成となっている。個人的に興味深かったのは『Instrumentals』のほうで、バンドよりもエイドリアンの先鋭的な楽曲へのアプローチが窺い知れたし、ジムオルーク『Bad Timing』を想起させられる豊かな音響世界からは、アメリカのフォークミュージックの系譜をたどりたいという欲求を擽られた(そういった意味で上記のmikikiの対談は非常に勉強になった)。
09 : Matija Strnisa『House of Hummingburd Original Motion Soundtrack』
キム・ボラ監督が手がけた韓国映画『はちどり』のサウンドトラック。映画の出来も素晴らしかったが、劇伴を単独で聴いてもアンビエント/エレクトロニカのとしての傑作っぷりに驚かされる。白日夢の中で揺らめいているTelefon Tel Aviv的なテクスチャー、そしてその中に隠された確かなポップネスには、親しみを持たざるを得ない。『はちどり』は、買い物から帰ったウニが集合団地の部屋番号を間違える、といったカットから始まる。この時のウニの様子からすでに家庭内の不和が窺えるわけだが、その不和が決定的に表出するのは食事のシーン、より具体的にいえば“食器の音”である。不機嫌な父親に遠慮して、誰も食器の音を立てない。父親が黙れば今度はその沈黙を埋めるように食器の音だけが食卓を埋める(だからこそ終盤の姉がぽそっと呟く“美味しい”という言葉は感動的。)。抑制の効いた劇伴があげる効果も伴って、音の使い方からは野心的な印象を受ける。恋人に送るテープの録音がローファイな音質から作品のBGMとして変容していく様、兄のビンタで鼓膜が敗れた際の音処理、崩落したソンス大橋を見るウニの吐息の拾い方など、特記すべき点は枚挙にいとまが無いが、Matija Strnišaが手がけた静謐なアンビエント調の劇伴の中で、自然音や生活音が鮮やかに人物の心情に補助線を引いている。
08 : Phoebe Bridgers『Punisher』
https://www.neol.jp/music-2/99721/
前作を聴いた時は「俺はJulien Baker派だなぁ」なんて思っていたのですが、今作の飛躍っぷりには本当にたまげた。慌てて前作を聞き直してみると、サウンドプロダクションの圧倒的な変化に驚いた。前作は全体的にインディ的な籠った音響が箱庭の中で鳴っており、その要素がPhoebeの伸びやかな歌声に制約をかけているようにも感じられる。今作はその箱庭感から解放されて、彼女が本当に気持ち良さそうに歌っているから超好きになった。プロデューサーは前作のトニー・バーグに加え、イーサン・グルスカ、レコーディングにはブレイク・ミルズ(この人のアルバムは今年かなり聴き込んだが、未だに理解できている気がしない)も参加している。全く笑えない悲惨な状況を、ポップさを帯びて高らかに歌い上げてくれるアーティストの存在によって、今年は何度も助けられた。
07 : 舐達麻『Buds Montage』
https://www.vice.com/ja/article/k7qqme/namedaruma
https://natalie.mu/music/pp/namedaruma
埼玉県熊谷の3MCがリリースしたシングル。舐達麻の音楽から強烈なリアルさが漂ってくるのは、彼らが警察からの逃走中にメンバーの一員(104)を失うという強烈な経験をしてきているとか、全身に刺青が入っているとか、MVでガンガン大麻吸ってるからとか、そういう理由ではない。この世には自分が絶対に選ばなかったし、選べなかった人生がある。実現できない可能性を考え、“今ここ“にいない人生を夢想する、そういった慰めに身を浸したくなる時がある。しかし自分が選ばなかった人生にも、必ず苦悩はつきまとう。舐達麻のリリックは、自分の甘えた夢想を真摯な切実さをもって打ち砕いてくれる。
上を見て 振り返る 繰り返しては
下を見て探してた半透明な 結晶は
聞こえなくなった右耳や 左腕の静脈に溶けていった
刺した針の数が今に水を刺し 嫌気が刺した
BUDS MONTAGEの中のこの一節だけでも、彼らがいわゆる典型的ラッパー的マッチョイズムやセルフボースティングに終始せず、葛藤や悔恨を芸術に昇華させていることが分かる。ラップという芸術に魅せられている彼らのストイック意志を象徴するように、ANARCHYと舐達麻の共作曲「ANGELA」のMVではLuis Vitonの鞄が燃やされている。
06 : Pinegrove『Marigold』
https://www.indienative.com/interviews/pinegrove
バンドを取り巻く騒動と困惑ともに複雑な思いで受け入れざるを得なかった2ndの後、さまざまな紆余曲折を経てリリースした3rdは、1stの親密さと風通しの良さ、2ndの空間的な音の拡張を同居せしめた、現段階での最高傑作である。
僕にとっては「マリーゴールド」という言葉はそれとまた違った意味を表しているんだ。2つ前のアルバム『Cardinal』のテーマだった「木にとまる赤い鳥」は、創造の魂が訪れることの象徴だったんだ。自然発生的で予測不可能なものが、こちらが意図しないでも向こうからやってくるイメージに近いかな。『Marigold』のテーマはその逆で、「自分から行く必要がある」ということなんだ。つまり、自分が姿を見せる時期という点にすごくこだわったんだ。マリーゴールドの花が咲く時期は限られていて、年中いつも咲いているわけではないよね。咲いている時期と咲いていない時期の二面性を表現したアルバムなんだ。
Pinegroveの音楽からは、圧倒的な親密さを感じる。ニューヨーク北部の田舎にある家を改装したスタジオでレコーディングを行うなど、限りなくインディペンデントな活動形態をとっていることも要因の一つではあるだろうが、何よりもファンのことを念頭において活動をし続けていること彼らの精神性が、音楽に表れているということなのだろう。
たとえ「I」 と歌っていても、彼らにとっては彼ら自身のことを指している場合もあるし、そうでない場合もある。どんな場合であっても、「I」が意味する「自分自身」には肯定的な意味合いを持たせたいんだ。最初は不和や衝突がきっかけでできた歌詞であっても、問題が解決したり救われるようなポジティブな結末を残したいんだ。最初は自分自身の気持ちを歌詞に書いていたけど、オーディエンスが一緒に歌ってくれることで、自分のことだけじゃなく、彼らにとっての「I」を意識するようになったよ。
05 : 曽我部恵一『Sometime In Tokyo City』
曽我部恵一が5月にリリースしたシングル。緊急事態宣言下の東京、不気味なまでに空っぽの通勤時間帯の電車が、日々の重荷を捨て去って軽やかに街を駆けていく不思議な日々を、今後の人生で何度も思い出すだろう。その時、この曲は人々の間を漠然と通り過ぎていった死の影、お互いを想いながらも手に触れられぬもどかしさ、人々がポケットの中にそっと隠していた孤独、隣人への静かな愛情、それら全ての幻を、あの時と同じ温かさで感じさせてくれるに違いない。
あまりに乾いてしまって 言葉も出ない昼下がり
ぼくらはきっと泣けずに 子供のように縮んでく
ぼくのミルクをきみに ぼくのミルクをきみに
ぼくのミルクをきみに 飲んで欲しいと思う
すごい時間が経って 髪の毛が白くなって
いつの間にか軽くなる
行ってしまった恋人よ 行ってしまった恋人よ
⻘い夜に星は今も見えているかい? 舌を出して笑う
すぐに逃げてしまう そんなものをいつかつかまえようね!
コーヒーを淹れよう 息をするように今日が明日に変わるのだ
04 : Mac Miller『Circles』
2018年9月に亡くなったMac Millerの遺作。もともと『Swiminng』の対になる作品としてレコーディングされた音源の断片は、ジョン・ブライオンによってとても静謐でパーソナルな傑作としてまとめられた。マックのラップと歌を慈しむようなシンプルなプロダクションだからこそ、彼が迷い苦しみながら死に接近していく様がとても痛切に迫ってくる。
Good news, good news, good news
グッド・ニュース、グッド・ニュース
That’s all they wanna hear
みんなが耳にしたいのはそれだけ
No, they don’t like you when I’m down
そうだろ、みんな落ち込んだ俺は嫌いなんだ
But when I’m flying, oh
でも空に舞うほどハイになれば
It make ‘em so uncomfortable
みんなをマジで不快にさせちまう
So different, what’s the difference?
じゃあ違いってさ、違いって何なんだよ?
And I cannot be changed, I cannot be changed, no
俺は変われなかった、俺は変われなかったんだ
Trust me, I’ve tried
信じてくれよ、努力はしたんだ
I just end up right at the start of the line
結局また俺はこの道のスタート地点に戻ってきた
Drawin’ circles
円を描くようにね
アルバムは生と死、円の中を泳ぐように物事が回り続けるモチーフに貫かれている。この音源を遺したMacはいなくなってしまって、それを聴いている私たちもいつかはいなくなってしまって、その先に何が遺っていくのだろうか。マックの苦痛が吐露されたリリックの連続を聴いていくうちに悲痛な想いが募っていくが、この音源が世に出たこと自体が、人間の営みが脈々と受け継がれていくことの証左であるということに思い当たり、慰められるような想いがしたのだった。
03 : The Microphones『Microphones in 2020』
物事は滝の流れのように絶えず変化し続ける。永続性を備えた事物など存在しない。東洋の思想からの影響も窺えるPhil自身の思索は、魔術的な2コードの円環に象徴されている。冒頭から歌い出しだけでも8分弱続くこのコードの循環は、その場に立ち止まっているような感覚と何処かへ向かって漂い続けているような感覚を伴って、聴き手を不可思議な領域へと誘う。そしてその魔術的な円環は、13分ごろのドラムパートの挿入、16分ごろの(Philのシグネチャーともいえる)歪んだベース音の挿入やコーラスのオーバーダブによって次々と拡張されていく。特に21分以降のフィードバックノイズがピアノの音を伴いながら地鳴りのように我々を包み込む展開、“The things I survive return repeatedly
And I find again that I am a newborn every time.”という言葉の後に、2コードの円環が解かれる瞬間は本作のハイライトであろう。ここで男は、過去に向き合うことで新たな生を獲得する。すでに眼前にない事物、その連なりが男に新たな生命を吹き込んでいく。『Crow』連作では封じられていたサウンドの拡張が、自身の思索の深化を具現化するように見事に結実していく様は感動的である。この楽曲で、確かにPhilは自身の眼前に立ち塞がっていた死を超えて行こうとしている。亡くなった妻の存在とともに歩み続けたPhilの思索が、円環を結んだ様にとても勇気づけられた。
02 : 青葉市子『”gift”live at Sogetsu Hall』
今年の1月11日に草月ホールで行われたライブの音源化。室内学的なアプローチを取り込んだ『アダンの風』も素晴らしかったが、青葉市子の才能が最も純度の高い状態で提示されているのはこのライブ盤であると思う。クラシックギターと歌声という最小限の構成要素だからこそ、全ての要素が完璧にコントロールされ、調和している様子に感動を覚える。
はっきり言って今年は(友達の結婚式を除いて)あまり良い思い出がなく、人間が死んでいくこととか、自分が未だ生かされていることの意味とか、喋れば喋るほど嘘が積み重なっていく感じとか、考えても答えの出ないようなことに足を取られることが多かったように思う。そういった呪いから逃れようとする時に、心のどこかで「また曖昧にして忘れようとしてるな」という声が響く。そんなときに、このライブ盤の青葉市子のMCに何度も何度も助けられている。
音楽の素晴らしいところはたくさんありますが、思い出とか、香りとか、手触りとか、そういうものを、覚えていてくれること、代わりに、どんどん私たちは新しい暮らし、新しい時間、新しい空気の中で、生きることを、更新していくわけですが、そのポイントで、作ってきた音楽は、そして出会ってきた音楽は、そのときの自分をよくよく憶えていてくれるものだと思います、だから安心して忘れてください。
01 : SuiseiNoboAz『3020』
https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/24756?page=2
『Liquid Rainbow』以降の非ロック的なアプローチが、未来と過去や出会いと別れの円環というモチーフのもとに結実した大傑作。1000年後の人間に向けた願いから幕を開けるアルバムは、ボアズ特有のSF的想像力と優しさを貫いたまま名曲「それから」で幕を閉じる。ロックのスケール、クリシェから逸脱していくような高野メルドーのアトランダムなフレージング、 THA BLUE HERB「未来は俺らの手の中」のロックからヒップホップへの逆輸入的引用、マレーシアの民謡「Wau Bulan」のサンプリングなど、SuiseiNoboAzは1000年後のクラシックを志向し、凡庸なロックからの逸脱を試みる。しかし、生々しく這いずるベース音と石原正晴の歌声、そして“新しい音楽が始まるはずさ”という言葉とともに鳴り轟くファズギターは、土臭いロックへのどうしようもない愛情に溢れている。
スピードが出て 前に進むこと自体が 未来を手繰り寄せる 引力を生むから ロックンロールは逆回転の力だ たとえ何があろうともこの手は離すな(SuiseiNoboAz「3020」)
“前に進む“ために回転する車輪が、同時に“未来を手繰り寄せる引力を生む“という詩は、おそらくバンドの旅とその記憶から引き出されたものであろう。この詩的回想がもつ美しさと、ロックへの愚直なまでの信頼が心を打たぬはずがない。
自分は〈明けない夜はない〉とか〈止まない雨はない〉とかは信じてない。それは今まで起こったことから帰納法的に導き出されたに過ぎないのであって、これから明けない夜が来るかもしれないし、止まない雨が降るかもしれない。でも人はいつか死ぬし、少なくとも、新しい音楽が始まるはずじゃないかと。自分は正しいことしか言いたくなくて、その〈正しい〉っていうのは倫理的なことではなく、事実に即してることしか言いたくない。でも、その中で最大限ポジティヴなことを言いたい。
このアルバムで紡がれる石原正晴の言葉は、事実に即した〈正しい〉ことの積み重ねである。その事実の積み重ねが、いつの間にか、地面から離れて宙に浮き、1000年後の未来まで飛んでいく。音楽への信頼、人間への信頼に溢れたこのアルバムが、2020年の最後に聴けてよかったと思う。
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